今回のイスタンブール滞在の旅ではまだドネルケバブを食べていなかったので、お昼はドネルケバブが食べたいというと、アリーさんはトラムT1線の通りの Çapa-Şehremını 駅に近いアルトゥンカプ・イスケンデル・ロカンタ Altınkapı İskender Et Lokantası という店に連れて行ってくれた。
アリーさんが注文してくれるので楽。出てきたのはナンのような巨大なパンにメゼ(前菜)。パンをちぎり、サラダを盛ってから写すのを忘れていたことに気付く。
ガイドブックで見て食べてみたいと思っていた。
キュウリのヨーグルト和え
葉野菜の隙間に赤いのはちょっとピリッとしたもの。メゼではこれだけ出てくることが多い。
トルコや中央アジア、中東の国々では野菜はたくさん出てくる。これは細かく切った野菜を和えたもの。
そして出てきたドネルケバブは今まで見たことのないものだった。こんなに薄くて大きな切り身とは。柔らかくで食べやすい。感動ものです。
下にはピラウ、そばにはポテト、中庭のようなパンの他にエキメキ ekmek というバゲットみたいなパンも付いてきた。トルコ人は野菜も炭水化物もたんぱく質も沢山食べる。
そしてデザートはカダイフ。これも好きなお菓子。
ドネルケバブは巨大な肉の塊を縦にして回転させながら焼いていき、火が通ったところからそぐように切っていくのだけれど、どうやってあんなに薄く四角く切れるのかと思ったら、お店の人が見せてくれた。なるほど。
次に見学したのはハセキヒュレムスルタンジャーミイと複合施設
中央のドームが二つにミナーレが1本のものがモスク。道路を挟んで北にあるのがメドレセや病院など。
➊礼拝室 ➋メドレセ ➌小学校 ➍病院 ➎イマレット(学生や食べられない人達に食事を提供するところ)
➎イマレット(Imaret)の煙突群と❻の入口
扉の片側が開いているので、まず複合施設から見学することにした。入ってすぐ右に警備員がいて、「ここは女子校です。部外者は入れません」と言われた。がっかりして外に出たが、ヒュレムスルタンが建てて以来、このメドレセはずっと女子教育を続けてきたのかどうかを聞いてみればよかった。
ここから反時計回りに複合施設の外を見てみよう。
格子窓は女性たちが中から外の風景を見ている時に、外からそれが分からないようにするためのもの。二階の右端がこわれているが。
ミマールスィナンが1539年に建てた最初のモスクだが、ドームが二つあるタイプはあったかな?
『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』は、1539年、ハセキヒュッレムスルタンのために建てられたこの複合施設は、シナンが帝国建築主任に任命された後、引き受けた最初の重要な複合施設である。
それはモスク、マドラサ、小学校、病院、そして後に複合施設(キュリエシ)に追加された炊き出し(1550)で構成されている。
建物をさまざまな角度で配置し、狭い通路とその間の隙間を残すことで、シナンはその後の作品ではめったに見られない有機的なアプローチを選択し、豊かな遠近効果をもたらした。
単一ドーム型のモスクは、後にモジュールを追加して拡張された (1612)。隣接するバイラムパシャキュリエシ(1635)とともに、このキュリエシは重要な社会センターを形成したという。
やっぱり創建時は単一ドームだったのだ。スィナンは1588年に亡くなっているので、弟子の一人が同じ型の礼拝室を付け加えたのだろう。それは礼拝する人が多すぎて入りきれなかったからとしか考えられない。
➊礼拝室 ➋メドレセ ➌小学校 ⑦モスクへの入口 ⑧シャドルヴァン(清めの泉亭、今はない) ⑨礼拝室入口 ⑪ソンジェマアトイェリ(遅れて来た人が礼拝する場所) ⑫左:ミマールスィナンが造ったドーム ⑫右:1612年につくられたドーム ⑬ミンバル(説教壇) ⑭ミフラーブ
⑩柱廊に ⑨礼拝室入口と⑪ソンジェマアトイェリ
右を見ても⑧シャドルヴァンはない。いや、奥の紅葉した木を囲んでいるものがシャドルヴァンだったのでは。そして現在では奥の白い建物に四つほど腰掛けと蛇口がある。
右を見ても⑧シャドルヴァンはない。いや、奥の紅葉した木を囲んでいるものがシャドルヴァンだったのでは。そして現在では奥の白い建物に四つほど腰掛けと蛇口がある。
⑨ミマールスィナンが造った礼拝室入口上のムカルナス
説教壇下の通路と共に。
通路から新しいドームとの間に造られた、あるいはミマールスィナンが造ったものを二つの礼拝室の間に移設したミフラーブのろうそくが見えている。
壁画を何でもフレスコ画と呼んでいたが、ある時にガイドのギュンドアンさんに「フレスコ画とは違います」と言われた。じっくりとお話を聞きたかったが、他の方もおられるのでそのままになってしまったのが残念。
赤い花の咲く植物を描いたのか、その花束なのかよく分からない。
ミマールスィナンの礼拝室入口と簡素なムアッジン(アザーンを唱える人)用マッフィル。
新しい礼拝室から眺めたミマールスィナンが造った礼拝室
撮影後に修復されたらしく、現在では壁面の装飾絵画はなくなっている。
太短い花崗岩の円柱が2本。その間の大きなアーチとミフラーブまでの小さなアーチでミマールスィナンが造った礼拝室と、新しく造った拝室が繋がるという不思議なモスク。そのせいか、どこを写せば良いのかわからなくなってしまったのだろう。
ミマールスィナンが造ったドームへの移行部と、1612年に付け加えられた東側の新しい礼拝室の移行部。近年の修復でどちらも壁面とドームが塗り替えられてしまっているが、それを考慮にいれなくても、四隅のスキンチがムカルナスの積み重ねではなく、扇状の、いや傘状の襞を重ねているところも良く似ている。これが果たしてミマールスィナンが造ったものなのだろうか。
ミマールスィナンの礼拝室から新しい礼拝室を望む。左の棚は靴入れ。
ミマールスィナン(1588没)もヒュッレム(1858没)もこんな風に改変されるとは思っていなかっただろう。
せっかくなのでマッフィルを見に行く。
顔や姿が外からよく見えないための格子
この特別席は閉じられていた。1612年といえば、スレイマン大帝の曾孫でスルタンアフメトジャーミイを建てたアフメト一世の時代。こんなに小さなモスクにわざわざマッフィルを造るために新しい礼拝室を建てたとは思えない。
ここからはミンバル(説教壇)の頂部がよく見えた。こんなに長い屋根だとは思わなかった。
蔓草状に描いた花も簡素。
下に降りてドームを見上げる。
なんとも不思議な礼拝室を出て、低い垣根からメドレセ方面を眺める。
続いてミナレットを見上げる。
先ほどのハディムイブラヒムパシャジャーミイ(1551)のミナレットも礼拝室の平面の中に造られていたが、ミマールスィナンは1939年にはすでにミナレットは礼拝室の平面の中に建てていたのだ。
ムカルナスも入口のものと同様に幾何学的な平面の組み合わせ。鍾乳石飾りのないこんなムカルナスの方が私の好み。
ハセキ通りの来し方。
向かいの突き出た屋根に続く建物が➌小学校
ハセキヒュレムスルタンジャーミイと並びにあったドームのある建物は、先述にあったバイラムパシャキュリエシ Kuliessi 建物群で、ドームは八角形の墓廟 Türbesi
ハセキヒュレムスルタンジャーミイと並びにあったドームのある建物は、先述にあったバイラムパシャキュリエシ Kuliessi 建物群で、ドームは八角形の墓廟 Türbesi
その北側の建物は、リュネットに昔の建物の写真を載せていて、朝食レストラン Külli -Ye Kahvalti Salonu。
残念ながらこの複合施設に入ることはできなかったが、『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』には複合施設のうち病院についての記事と図版があった。
病院の中庭が八角形であることが分かる。
同書は、オスマン帝国は病院(ダルシュシファ)を建設し、精神疾患を含む多くの病気の治療に使用した。スィナンの建築した最初の病院は、マニサのハフサ・スルタン病院(1539)で、この病院は、セルジューク朝の病院に似て、リワクのない正方形のメドレセのような平面だった。
そのすぐ後に建てられたスィナンのハセキ病院は、デザインと空間構成の両方で賞賛を集めたという。
ハフサ・スルタンはスレイマン大帝の母后(ヴァリデ)。
上の写真でみえている建物
同書は、ハセキ病院(1539または1550-57)は、ヒュッレムが特に女性のために建設を依頼したものだ。ここでは、八角形の中庭の三方が部屋になっていて、四つ目は通りに面した格子窓のファサードとなっている。その間二面にはイーワーンが設けられ、他の二面は玄関ホールと洗面所に面していまる。
イーワーンと3段のドームのプランは、スィナンのドームの扱いにおける将来の発展を予感させる。イーワーンからは二重ドームの患者のためのホールにアクセスできるという。
イスタンブール ハセキヒュレムスルタンジャーミイの病院中庭 Architect Sinan His Life, Works and Patrons より |
同書は、病院には独立したキッチンと食堂があるという。
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参考文献
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim著 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI.