お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年12月20日金曜日

チャナッカレ海峡 Çanakkale Boğazı


本日はブルサからチャナッカレを経由してエディルネへ。 Google Earth より


曇りがちの空の下、ブルサから西へ西へ。
この辺りは多少起伏がある程度で果樹が植えられていたり、麦畑だったり。

風力発電


途中のパーキングでトイレ休憩。ピスタチオ入りのスナック菓子がいろいろあったので、ついつい買ってしまう。東トルコはピスタチオの産地なので、トルコにはピスタチオを使ったお菓子やペーストなどがたくさんある。


いつ来てもトルコは建設中の建物がいっぱい。


オリーブ園と小麦畑


そうこうするうちにマルマラ海が見えてきた。

イスタンブールに住む人たちの多くは、マルマラ海沿岸に別荘を持っているという。


もともとテュルク系の遊牧民だったので、夏の家と冬の家を持つのだそう(『トルコで私も考えた』より)。


現在ではこの辺りで遊牧している人はいないと思うが、羊さんたちが草を食んでいるのを見かけた。ついでに、後ろの白い建物のARSLAN アルスランはライオンのこと。 



細長いチャナッカレ海峡


チャナッカレ海峡(ダーダネルス海峡)地図 Google Earth より
①ラープセキLapseki ②ゲリボルGelibolu ③チャナッカレ1915橋 ④セストス ⑤アビュドス ⑥エジェアバットEceabat ⑦キリトバヒルKilitbahir ⑧チャナッカレÇanakkale ⑨チメンリク城Çimenlik Kalesi 


海峡は広くなったり狭くなったりを繰り返す。


『望遠郷』は、マルマラ海の入口には、ヨーロッパ側に②ゲリボルの港、アジア側に①ラープセキの港があるという。


対岸の町はゲリボルだろうか。
②ゲリボル
同書は、ヨーロッパではガリポリの名で知られているこの町は、もともとはギリシア人によってつくられたカリポリス(美しい町)であった。古代にはラープセキより小さな町だったが、ビザンティン時代には立場が逆転し、ヘレスポント海峡の要害となった。ユスティニアヌス一世によって要塞が築かれ、フィリッピクスによって補強された。すでにその頃からこの海峡は戦略上の最重要地点だったのである。
1190年、第3次十字軍の際、神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世(赤髭王)が軍隊を進めたのもまさにこの地であるという。


やがて③チャナッカレ橋 1915 Çanakkale Köprüsü が見えてきたが、実際にあるのはチャナッカレより手前のラープセキという町。

①ラープセキ
同書は、ミレトスとフォカイアのイオニア人によって前654年につくられた古代都市ランプサクであったが、その古代遺跡は残っていない。ギリシア・ローマ時代にこの港町は、ナガラ岬の近くにあったアビュドスとともに、当時ヘレスポントと呼ばれていたこの海峡の海上貿易を支配していた。当時この町はワインで有名で、住民たちはランプサクの酒は神の祝福を受けた酒であると言っていたという。

1915とは橋の長さではなく、1915年の第1次世界大戦で、連合国艦隊にトルコが勝利したガリポリの戦いがあった年。
現地ガイドのギュンドアン氏によると、この時、トルコ軍の高官でもなかったムスタファ・ケマルが活躍して、一日で勝利した。この海峡には今でも沢山の連合国艦隊が沈んでいる。これがきっかけでムスタファ・ケマルはオスマン帝国が敗戦して連合軍に占領されたのを取り返して、1923年にトルコ共和国が誕生して、ムスタファ・ケマルが初代大統領となったのだそう。現在では「アタテュルク(トルコの父)」の名で呼ばれている。
それまで世界一の吊り橋だった明石海峡大橋を抜いたそうな。

橋はあっさりと通り過ぎてしまった。


④セストス 
同書は、エーゲ海沿岸のアイオリス人が前7世紀につくったギリシア植民地、古代都市セストスがあった所であるという。

⑤アビュドス
同書は、対岸のナガラ岬にはミレトスのイオニア人によって同じ頃つくられたアビュドスの遺跡がある。古代このふたつの都市は、ヘレスポント海峡の戦略上の重要拠点であった。
アレクサンドロス大王の軍隊も前334年、アジア遠征の際ここを通過した。マケドニア軍はヘレスポント海峡を渡ると岸に沿って進み、トロイへと向かったのであるという。

⑥エジェアバット 
同書は、エジェアバトは、小アジア西岸よりやって来たギリシア人入植者によって前7世紀につくられたという。

チャナッカレはトルコのヨーロッパ側とアジア側をつなぐフェリーのある町くらいに思っていたが、古代から重要な海峡にある町だったのだ。その上、いつの間にか橋ができて便利になっていた。

町を過ぎたホテルで昼食、壁にはチャナッカレ海峡の戦いの写真などがあった。シャボン玉のように浮かんだガラス玉が面白かった。

スープ、大盛りのサラダ、カボチャのデザートの間に出たメインは牛肉の煮込み。ジャガイモのピュレも多いが、大きな肉の下に潜む野菜も沢山。

私好みのホロホロというか、よく煮込まれている。



向かい側のトルコの国旗が掲げてある下の方にある要塞はキリトバヒル

⑦キリトバヒル(海の錠要塞
同書は、このオスマン帝国の要塞には、幕壁によってつながれたふたつの塔がある。1453年のコンスタンティノープル攻略の際には、対岸のカレ・スルタニエ要塞とともに、メフメット二世の拠点となった。さらにこのふたつの要塞は、第1次世界大戦で英仏海軍がダーダネルス海峡を突破しようとしたときにも、重要なトルコの防衛線となったのであるという。

この先までダーダネルス海峡は続く、65㎞もある長い海峡。


食後は⑧チャナッカレに戻り、町を少し散策。
時計塔 Çanakkale Saat Kulesi 


途中でムール貝にピラフを詰めたものを試食。

これは昔から知ってはいたが、やっと食することができた。熱々ではないのが残念。次はムール貝のフライをお願いしま~す。


ヤル通り Yalı Cd.を南下。



そして行き着いたのは、①海事博物館の入口


①入口 ②博物館船 ACAR ③公園 ④チメンリク城 Çimenlik Kalesi 


入って左手にドイツ製 field gun 野砲


②博物館船 ACAR 
説明パネルは、この船は1936年から37年にかけてドイツで建造された。トルコ海軍に引き取られた後、ムスタファ・ケマル・アタチュルクによって外交任務やサヴァロナ・ヨットへの移動に使用された。アタチュルクの死後、高位の将校を乗せてスタッフボートとしての任務を遂行したという。

2015年9月25日に退役し、2017年7月3日から展示されているという。



その先は撮影料がものすごく高額だったので写真はない。

③公園
木陰に当時の武器が展示されていた。

④チメンリク城
メフメット二世が1452年に建造した要塞。
同じ年に、バヤズィット一世が1395年ボスポラス海峡のアジア側に築いていたアナドルヒサールと呼ばれる城塞の対岸に、メフメット二世はルメリヒサールと呼ばれる城塞を築いた。
そして1453年、コンスタンティノープルを陥落した。


見学後はチャナッカレ1915橋を渡り、

海から離れて

ほぼ北に向かい、


農作地を走って、



エディルネに到着した。
夕食は郊外のホテルにて。
盛りこぼれるほどのサラダとスープ、そしてデザート。これだけ野菜があればパンは美味しくても一片くらいしか食べられない。

飲み物はもちろんアイラン



メインが出る間に夕景を鑑賞。アタテュルク大通りの先に、翌日見学するモスクなどがある。

右のライトアップされていない大きなモスクがミマールスィナンが最後に建てたセリミエジャーミイ Selimiye Camii、右側のミナレットに三つの輪っかが点灯されているのがユチュシェレフェリジャーミイ Üç Şerefeli Cami 。


メインは肉の煮込みとピラフ(トルコではピラウ)





参考にしたもの
現地の説明パネル

参考文献
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同胞舎出版 1994年 同胞舎出版

2024年12月13日金曜日

ブルサ 郊外のジュマルクズク Cumalıkızık


旧市街の墓廟やモスク巡りの後は郊外のオスマン朝期独特の家屋の残るジュマルクズクへ。
ブルサ周辺地図 Google Earth より


ジュマルクズクの集落 Google Earth より
①市の立つ広場 ②文化センター ③モスク ④キュペリ邸 KÜPELİ 
ブルサ周辺には「クズィク」というテュルク系の人々の集落がたくさん残っていて、その中でもオスマン朝初期の景観がよく残っているので、現在では観光地になっているのだそう。


①市の立つ広場
毎日のことなのか、観光客のためなのか、パザールが開かれていた。三叉路の小さな広場の中央に大きな立っている大きな木はプラタナスだとか。

広場から南方向へは急な上り坂。オルタ小路 Orta Sokak へ。


②文化センター
狭い道はうねるように蛇行していき、軒を連ねた建物が続くかと思えば、狭い通路で仕切られたところもある。その上この文化センターになっている建物の形がなんともいえない。

二階の窓が迫り出ているのは、外に出ることが少なかった女性たちが、下界を見られるようにとか。


空が狭い。
二階の窓は木で支えられている。伝統的には反らせた木材が使われているようだが、中にはそんな工夫をしていない家屋もある。色は何度も塗り直しているそうだ。


蔓を這わせた家屋は土壁が露出したままで、人のすまない家も多いらしい。それでも、不思議なことに、女性たちが外を見るときに外の人から見えないようにする格子窓は残っている。


上階は土壁だが、下階は石積み。

そして、この集落の③モスクと広場。


さらに登っていく。


今にも崩れそうな家屋も。


もっと荒廃した家屋。修復して保存されるのだろう、世界遺産に指定されている集落なのだから。



今度は右に向きを変えて、もっと狭い通路へ。


こんな細いのも通路です。
石壁には必ず木材が挟んであるのは耐震のため?


やっと広い小路!に出た。坂道には中央に細い溝が設けられていて、排水のために建物の両側から溝に向かってさらに勾配がつけられている。


この先で住居を見学できるキュペリ邸 KÜPELİ に入ってみた。

門を入ったところが中庭になっている。壁の色はこの程度に薄い方が古い集落に似合うと思うが。

外階段

階段途中から。葡萄棚か藤棚か、葉がある時期は中庭に木陰ができて、幾分涼しいだろう。


階段の上から。
瓦は半筒形のものが交互に重なっている。

家の中へ入るとすぐに台所バターをつくる筒が階段際に置かれていたり、ひょうたんが掛けてあったり。


ドラマ「オスマン帝国外伝」では、皇帝も家族と食事をする時は床に座って、低い卓袱台を囲んでいたけれど。

椅子とテーブルというのはいつ頃から?


オスマン朝でもベッドで寝ていたのかな。


一階には今風のストーブ。
昔は掘り炬燵があったと聞いたこともあるが・・・


右手には別の小路があって、先程通った小路に戻れるのだが、

反対側を通ってみたが、

すぐにもと来た道に出てしまった。それでも行きと帰りとでは見える方向も違って、


鄙びた家並みが


楽しめる集落だった。

土産物屋や観光客向けのカフェが多いのが残念だったけれど。


イスタンブールのアジア側ユシキュダルのおしゃれなオスマン様式の建物とは違い、質実剛健な建物が並ぶ集落だった。


北向かいの山


雪の残った山を見ながらホテルへ。結局ウルダーは見えなかった



夕食はホテルで。
まずはスープ

メゼ(冷たい前菜)は取り分けるのではなく、一皿で。


肉と野菜の煮込みはナスのペーストにのせて


最後はフルーツとスイーツ
丸くて穴のあるのはハヌムギョベーイ Hanım Göbeği 、貴婦人のおへそという名のお菓子。




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