お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2025年2月21日金曜日

エディルネ バヤズィットキュッリエ II. Bayezid Külliyesi メドレセと病院、イマレット


バヤズィットキュッリエの各複合施設 説明パネルより
①食品庫 ②台所 ③イマレット(メドレセの学生や貧しい人達に食事を提供するための慈善施設) ④スルタンの門 ⑤カフェ・土産物屋 ⑥モスク ⑦タブハネ ⑧病院 ⑨医学メドレセ
『トルコ・イスラム建築紀行』は、モスク、医学メドレセ、ダールッシファ、タブハーネ、イマーレット、倉庫からなるキュッリエである。失われて現存しないハマムを除き、トゥンジャ川に架けた橋を含め、総てがまとまっていて、保存状態も良く、オスマン建築のキュッリエとして最も優れたもののひとつだ。特に、医学メドレセとダールッシファは、医学教育と治療のセンターとして、18世紀まで世界の最先端の施設であった。
建設1484-88年 建設者バヤズィット二世 建築家ミマール・ハイレッディンという。
イスタンブールのベヤズィットジャーミイ(1500-06)より前に建てられている。
同じ人物なのにバヤズィットだったりベヤズィットだったりすることについて『トルコ・イスラム建築』及び『トルコ・イスラム建築紀行』の筆者飯島英夫氏によると、トルコ共和国内で7通りの表記が使用されているそうで、氏がエディルネのモスク複合施設については「バヤズィット」、イスタンブールについては「ベヤズィット」とされているので、それに従った。


⑥モスクを出て⑨医学メドレセへ。
医学メドレセとは『トルコ・イスラム建築』は、医師養成と医学研究のために設立された寄宿制の教育施設という。
メドレセ平面図のパネル

入口は目立たない。


中庭とシャドゥルヴァン(清めの泉亭)。




内部はオスマン帝国期の医学教育が紹介されている。
メドレセは中庭に教室の入口が並んでいる。

どの部屋も天井はペンデンティブから移行したドーム

門番の部屋 角部屋には窓が二つ

居室で勉強する学生 
寒さ除けにカーペットを敷き詰め、座布団の上に座っている。

議論する二人の医学者
胡坐する学者たちは意外にも靴を履いたまま。部屋に入る時に靴を脱ぐということだったのに。寒いので上履きかも。

二人の学生に講義する医学者


書庫


ドーム室では治療の授業(写真を合成したので奥の戸棚が妙になってしまった)


続いて⑧ダルシッファ(病院)に向かう。

ダールシッファ DÂRÜŞŞİFA (病院)の平面図

細長い中庭

①-⑧右手のアーケードにも部屋の入口が並んでいる。

一方左手の建物では㉕台所と

㉔食品庫。


イーワーンの奥に入口


小さな中庭の向こうの六角形の建物へ入ると、

イーワーンが大きく開いていて中央にホールのある屋内は白かった。


平面図によると噴水を囲んで13の診察室があるが、中には中央ホールから直接アクセスできない⑨・㉑の診察室や、各イーワーンの左右に開口部のあってホールからは見えない⑩・⑫・⑭・⑯・⑱・⑳の診察室があるので、ホールから見えるのは⑪・⑬・⑮・⑰・⑲の五つの診察室だけ。うまく配置したものだ。


中央のシャドゥルヴァンの真上、ドーム頂部に明かり取りの窓。

六角形から十二角形、そして円形へとちょっと変わったムカルナスで移行している。ここにも12枚のステンドグラスの窓


水の音が癒やし効果があるため、ホールの中央には噴水があった。その後方に見えているのは⑮音楽療法室


さて、一階はさまざまな診察室が再現されていた。

⑪眼科

⑫耳鼻咽喉科


⑬外科


⑭精神疾患の患者たち


⑮音楽療法の楽士たち


説明パネルより トルコの楽器の名称が記されている。


⑰再建外科 形成外科のようなものかな

⑱婦人科および産科

⑲女性外科医クペリ・サリハ・ハトゥン

細密画にも残っている(説明パネルより)

全てを撮影できなかったが、一般市民のために、イスラーム世界では15世紀末にこれだけ分科された医学があったとは。


ダールッシファ(病院)とモスクの間から境内の外に出て、モスクとタブハネ(無料の宿泊施設)を過ぎて振り返る。

境内に戻ろうとしたら④スルタンの門が開いてなかったので、小ドームが並ぶ③イマレット(メドレセの学生や貧しい人達に食事を提供するための慈善施設)の方へ

イマレット平面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より
ⓐ中庭への門 ⓑ中庭 ⓒ食事室への入口 ⓓ食事室の一つ ⓔ台所への入口 ⓕ台所 ⓖ食事室への扉口 ⓗ長い食事室
エディルネ バヤズィットキュッリエのイマレット平面図 トルコ・イスラム建築紀行より


通り過ぎて角を曲がったら、


ⓐ塀に開かれた小さな門をくぐるとⓑ小さな中庭があって、

ⓒの扉口から入ると、

ⓓ食事室のペンデンティブで架構されたドーム

その下に二段の窓、

その下に三方にソファが並び、奥に小さなテーブルが二つ置かれていた。


外に出てⓔ反対側の扉へ。

入るとⓕドーム四つ分の広い部屋
左手前にはパンをつくる作業場。窯は二つ。

こねる人と焼く人。

部屋の隅にはパン焼きの実演を行っている山車と運ぶ人たちの細密画。
おそらく「1582年のムラート三世の息子の割礼の祝祭の細密画」の一つだと思うが、アトメイダヌ広場らしきものが見当たらない。

パン焼きの向かいのドームには食事をする人も。


真ん中の角柱それぞれのアーチの補強に2本ずつ木の梁が通されていた。

右向こうの隅はトルココーヒー屋、続いて金物屋?

さまざまな商売をする人たち。魚売りも。


ⓖ扉口からドーム三つ分の細長い食事室


各展示ケースには台所道具が並んでいる。

最奥部で食事をしている人たち。


最後に食品庫の傍を通って(トルコの野良犬は大きいがおとなしい。ただし狂犬病の予防接種をしているとは思えない)、


来たときとは違う門を出て、向かいのバス停でバスの3A線を待っていると、まもなく老婦人がやって来た。停留所には時刻表も路線図もないが、近所に住む人がやってきたら、遠からずバスも来るだろうと期待。


運良くバスはすぐにやって来た。
エディルネ中心部 Google Earth より
①セミリエジャーミイ ②ユチュシェレフェリジャーミイ ③ソコルルメフメトパシャハマム ④アリパシャチャルシュ ⑤ベデステンチャルシュ ⑥リュステムパシャケルヴァンサラユ ⑦エスキジャーミイ ⑧ムラディエジャーミイ ⑨エディルネ宮殿 バヤズィット二世キュッリエ(複合施設)II. Bayezid Külliyesi ⑪バヤズィット二世キュッリエ橋 II. Bayezid Külliyesi ⑫ヤルヌズギョズ橋 Yalnızgöz ⑬ガズィミハルジャーミイ Gazimihal Camii ⑭ガズィミハル橋Gazimihal Kpr. 


住宅街を通って道路工事の中を走り、トゥンジャ川に近づいたところでモスクが見えた。
ガズィミハルベイジャーミイ Gazi Mihal Bey Hamamı ⑭ガズィミハル橋 Gazimihal Kpr. ⑮ガズィミハルベイハマム Gazi Mihal Bey Hamamı Google Earth より


TURKISH ARCHAEOLOGICAL NEWSの Gazimihal Mosque and Bath in Edirne によると、1422年にガズィミハルが建てたモスク複合施設という。現在は川の対岸にハマムが残っているだけ。
1422年といえば、エディルネではベデステンチャルシュ(Bedesten Çarşısı 1417-18)が建てられた後で、ムラディエジャーミイ(Muradiye Camii 1426-27)の前。
Google Earth の俯瞰写真で見えるように「逆T字型」と呼ばれている古い様式のモスクで、ソンジェマアトイェリ(礼拝の時刻に遅れてきた人が礼拝する場所)と頂部がちょっと変わったミナレットが見えていた。赤い屋根はシャドゥルヴァン(清めの泉亭)


結局この時も⑭ガズィミハル橋を写すこともできず、⑮ガズィミハルベイハマム跡にも気付かずに旧市街に入った。バスはその後南東方向に直進し、郊外のオトガル(otogarı バスターミナル)まで行く。ただし、路線図のDとその名称が記されているだけがバス停の全てではない。左下の黄色い欄に小さな文字で記されているのが全部バス停なのだった。

エディルネの中心部、アタテュルク大通りの Orduevi(陸軍の施設)という停留所を過ぎてから、道路沿いのマルギホテルを見落とさないように運転手席の前方を見ていたら、各停留所でどんどん人が乗ってきて、全く見えなくなってしまった。停留所のアナウンスも表示もないので不安そうにしているのが分かったのか、後方で立っている若い女の子たちが「何か心配なことがありますか?」と尋ねてくれた。私は「マルギ」というしかなかったが、やがてマルギ停留所に近づいたら教えてくれた。


無事ホテルに戻って、皆さんと共にバスで夕食のレストランまで移動。運悪く帰宅ラッシュに当たってしまった。

エディルネ地図 Google Earth より
A:ホテル B:中心部 C:ムラディエジャーミイ D:ベヤズィットジャーミイの複合施設 E:夕食レストラン


渋滞を抜け、線路を越えたバスはようやくトゥンジャ川に架かるトゥンジャ橋 Tunca Köprüsü へ。
列を成す対向車線の先頭には二頭立ての馬車。観光客向けの馬車も荷馬車もほかではみかけなかったけれど。

橋の上からトゥンジャ川の上流側。バヤズィットキュッリエの東側を流れていた川は、やがて大きく左に曲がり、この橋の少し下流でマリツァ川に合流する。



橋のたもとにある王朝 HANEDAN という名のレストランへ。


まだ早かったので橋を写す。
これはミマールスィナンが建造した橋ではないが、スィナン没後活躍した弟子のメフメトアー(イスタンブールのブルーモスクを建てた)が設計した七つのアーチのある橋という。

しかもほぼ満月。白いミナレットが川面に映るそのモスクの名はなんとスレイマニエジャーミイ Süleymaniye Cami 

さほど遠くないところにセリミエジャーミイも見えた。


さてお飲み物はシュガーフリーの黒人参のジュース

サラダとスープ

私が選んだのはチキンのグリル
付け合わせの青唐辛子は曲者。ものすごく辛いことがあるので、食べるときは覚悟して。
大きな切り身が二つ。ヨーロッパでは骨付きで出てくるが、トルコでは食べやすいように切り身で出てきた。

お隣は牛のグリル

食事が終わると背中に大きな金属容器を背負ったおっちゃんがやって来て、

注いでくれたのはコーヒーだった。

デザートとチャイとコーヒー
そう言えばトルココーヒーと言えば細かく挽いた豆と水を小さな鍋で沸かす濃いもの。その上粉がカップにたまるので、注意しないと粉まで口に入ってしまうのだが、時代がかわると普通のコーヒーになってしまった。 


食後は再びトゥンジャ川へ。

左よりライトアップされたウチュシェレフリジャーミイのミナレットとエスキジャーミイのミナレット。そして修復中でライトアップされないセリミエジャーミイ。




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参考サイト
TURKISH ARCHAEOLOGICAL NEWSの Gazimihal Mosque and Bath in Edirne 

参考文献
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社