現地ガイドのギュンドアン氏に、この日の見学が終わってからオルハンガジジャーミイの見学がしたいと言うと、自由時間の間に行って下さい。コザハンの隣の建物です、ということだったので、すぐに出かけた。
これがオルハンガジジャーミイ。切石と平レンガを交互に重ねたアルマシュク技法の壁面を眺めながら、
ミナレットも写したが、何故こんなに斜めに写してしまったのか・・・
それでも、初期のオスマン朝では、ミナレットは建物の外側に造ると思っていたが、副室の上に造られていることは分かった。
⑤ソンジェマアトイェリは間に細い八角柱があって、大きな尖頭アーチの中に小さな尖頭アーチを配するというしゃれたデザイン。創建時のものだろうか。オルハンガジジャーミイ Gazi Orhan Bey Camii 建設年:1339年(1417、1864に大修理)
『トルコ・イスラム建築紀行』は、オルハンはブルサの城外の東地区にブルサで最初のキュッリエを建設した。モスク、ハン、ハマム、アシハーネ、イマーレット、コーラン学校、メドレセ、からなっていた。多くの建物は、ブルサウルジャーミィの建設などの再開発で失われたが、エミル・ハン、オルハン・ハマム、オルハンガーズィージャーミイが現存という。
オルハン・ハマム(公衆浴場)
中庭のないモスクは、モスクの正面全体を一枚に写すことが難しいので、3枚を無理矢理パノラマ合成。
⑤ソンジェマアトイェリと④礼拝室入口
西のソンジェマアトイェリ
人頭のようなものがあってロマネスクの柱頭彫刻のよう。
その奥に入口。
門の上のタンパンにはカリグラフィーで文が記されているらしかった。
トロンプにもトルコ襞があるとは。トルコ襞についてはこちら
ミフラーブもかなり装飾的だがタイルではなさそう。
継ぎ目がないので、漆喰の浮彫に彩色したものだろう。
ムカルナスの両側のスパンドレルは細く渦巻かない蔓草が絵が糅ている。
下から二段目のムカルナスには金泥を塗った後に簡素な植物文様が描かれていて、ムカルナスは二重になっている。
最下段のムカルナスは色とりどりの植物文様の・・・タイル?
③ホールと⑥左副室方向、左副室は修復中で養生がかかっていた。入口まで戻って、出て行こうとしたところで、修復士のような人が木製のマッフィルの階段を上ろうとしていたので、その人にカメラを示すと、OKというサイン。
有り難く上がらせて頂いた。後でギュンドアン氏に話すと、滅多にないことですと言ってくれた。
二階のマッフィルから間近で見たホールの移行部。
東のソンジェマアトイェリ
平面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より
同書は、このモスクは逆T型プランの最初の建物として重要という。
メフメット一世(在位1413-21)が建設したイェシルジャーミイは逆T字型でも、⑥ザーヴィエ(デルヴィッシュ達の宿泊所兼修道場)が二つずつあり、それが礼拝室の両脇の半分くらいあるので、ここまで礼拝室が突出していない。
①ミフラーブ ②ミフラーブ前のドーム(礼拝室) ③ホール ④礼拝室入口 ⑤ソンジェマアトイェリ(礼拝時刻に遅れてきた人が礼拝するところ) ⑥右ザーヴィエ(デルヴィッシュ達の宿泊所兼修道場) ⑦左ザーヴィエ
入ってすぐに③低いホール、その向こうに②三段高い礼拝室。
広大で見通しのきかないウルジャーミイを見た後ではとても小さく感じた。
③ホールの天井は四隅から、現在では装飾のないトルコ扇が出て八角形をつくり、窓とトルコ襞が交互に配されている。
二度の修復を受けているということだが、果たして創建時、このトルコ扇にコンヤのブユック・カラタイ・メドレセのトルコ扇(1251)のようなモザイクタイルがあったのだろうか。
⑥右ザーヴィエには何もなかった。天井を見上げるのも忘れていた。
有り難く上がらせて頂いた。後でギュンドアン氏に話すと、滅多にないことですと言ってくれた。
二階のマッフィルから間近で見たホールの移行部。
その後バスで移動し、再びオスマン、オルハンの墓廟のあるトプハネの丘が見えて、
やがてバスを降りてて歩いていると、鮮魚店が店を開けていた。この時はラマダン(トルコ語ではラマザン)中だった。ニコニコしていたお店の人も一緒に写せば良かった。
テーブルには3-4人で食べるメゼ(主に野菜の前菜)やお椀にてんこ盛りで一人分のサラダがもう置かれていた。
メゼを一通り皿に盛りつける。
中に白チーズの入ったシガラボレイとシャーベット şerbet という飲み物。日本でいうシャーベットとは違って飲み物。「オスマン帝国外伝」で、たまにヒュッレムがハレムの女性たちに振る舞っていたのもこんなものだったのだろう。
関連記事
参考文献