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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2025年1月31日金曜日

エディルネ エスキジャーミイ Eski Camii


エディルネ中心部 Google Earth より
①セミリエジャーミイ Selimiye Camii ②ユチュシェレフェリジャーミイ Üç ŞerefeliCamii ③ソコルルメフメトパシャハマム Sokullu Mehmet Paşa Hamamı ④アリパシャチャルシュ Alipaşa Çarşıs ⑤ベデステンチャルシュ Bedesten Çarşısı ⑥リュステムパシャケルヴァンサラユ Rüstempaşa Kervansarayı ⑦エスキジャーミイ Eski Camii 


⑥リュステムパシャケルヴァンサラユの次に向かったのは、⑦エスキジャーミイ
「エスキ Eski」とはトルコ語で「古い」という意味、「新しい」は「イエニ yeni」。
小ドームが九つあるが、

セリミエジャーミイの方向からは六つに見えた。中央の小ドーム群がブルサのウルジャーミイのように高いので、向こう側の低い小ドーム群が見えなかったからだった。


⑥西側のミナレットを見ながら正面に回る。ミナレットの基部がトルコ三角形なのか、トルコ襞なのか、

思いっきりズームしてみると、四隅がトルコ襞っぽい。その下側は矩形の四隅に円錐形の頂部のある小さな円柱を付け加えるなど、ミマールスィナンの基部とはまた違った構成だ。建築家はコンヤ出身のハジュ・アラーエッディン(『トルコ・イスラム建築紀行』より)。
話はそれるが、「ハジュ」とはムスリムでメッカ(マッカ)への巡礼を果たした「ハジ」または「ハッジ」のトルコ語。その証として顎髭を生やし、人徳者らしくふるまわなければならないのだそう。空港では白い布に身を包んだ一団を見かけることがあるが、それをカメラに収めるのは憚られた。亡くなるとその布で包まれて土葬され、土に還るとされている。


『トルコ・イスラム建築』は、1402年のアンカラの戦で、ティムールに大敗したバヤズィット一世は捕虜となり憤死した。バヤズィットの息子たちの間でスルタン位継承戦が始ま り、オスマン朝は分裂状態になった。1413年にメフメット一世(在位1413-21)が統一するまで、スルタンの空位期であった。この時期にヨーロッパ側のエディルネを本拠地にした息子たちの一人のスレイマンが、1403年に建設を開始し、スレイマンの兄弟メフメット一世が1414年に完成したモスクが、エディルネ・エスキ・ジャーミであるという。

また『イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷』は、建物には施工者メルイブンイブラヒムと建築家ハジュアラエッティンコンヤルの名前が刻まれている。
1749年の火災と1752年の地震で壊れたが、マフムト一世の時代に修復されている。1932年と1944年にも修復が行われた。セルジュクトルコ建築の影響を受けた建物という。
モスクの正面白っぽい門の先に①礼拝室入口、その両側が②ソンジェマアトイェリ、東側のミナレットはバルコニーが一つだけ。

入口上のドームと礼拝室に入ったところにあるドーム。明かり取りの窓がかわゆい。


立面図・平面図 トルコ・イスラム建築より
①礼拝室入口 ②ソンジェマアトイェリ(礼拝の時刻に遅れてきた人が礼拝する場) ③ミフラーブ ④ミンバル(説教壇) ⑤ムアッズィン用マッフィル ⑥多ドーム式礼拝室 ⑦スルタンのマッフィル ⑦ミナレット
同書は、ブルサ・ウル・ジャーミの強い影響をうけている。
礼拝室は約45m四方の正方形で、断面が3.4m四方の太いピアを4本立て、9個の等しい正方形のベイを生み出し、各ベイに直径12.5mのドームを架けたプランである。正方形からドームへの移行方法には、トルコ三角形、ペンデンティブ、トロンプを使い分け、ドラムの高さにも変化を持たせているという。
立面図にも平面図にもミナレットは二つバルコニーのあるものしか記載がないのは何故だろう。
エディルネ エスキジャーミイ立面図・平面図 トルコ・イスラム建築より


複合柱は白い石、アーチはレンガ、壁は白石とレンガのアルマシュク。入口前にこれまで見たことのない不思議な形の玄関。

入ると②ソンジェマアトイェリには大きなカリグラフィーが


左右の壁に書かれていた。
ブルサのウルジャーミイが頭をよぎった。内部にも大きなカリグラフィーがあるのかも。

①礼拝室入口


内部の九つの小ドーム 『トルコ・イスラム建築』より
①礼拝室入口 ③ミフラーブ ④ミンバル(説教壇) ⑤ムアッズィン用マッフィル ⑦スルタンのマッフィル
ⓐ-ⓘ各ドーム
エディルネ エスキジャーミイ礼拝室平面図 『トルコ・イスラム建築』より


やはりブルサのウルジャーミイのようにカリグラフィーがしたためられていた。しかもここの角柱は太く短い。
赤と白を交互に配した幅の広い尖頭アーチはずっしりと重そう。真ん中のドームの右向こうの角柱には螺旋階段を備えた木製の⑤ムアッズィン用マッフィルがあり、三つ目のドームは正面に見えている尖頭アーチがミフラーブ壁に埋め込まれている。

最初のドームからぶら下がったランプ

ⓐそれをさけてドームを見上げる。
詳しくは後日忘れへんうちににて

スキンチには細かな植物文様が描かれている。アーチは赤石と白石を交互に配したものに見えたが、様々な岩石の模様を描いたものだった。元は石材だったのだろうか? 


ⓑドームの外側から斜め左方向
カリグラフィーはブルサのウルジャーミイと同じで左右対称のものもある。その一つ一つの下にプレートがあるので、それを書いた能筆家の名前や年代などが分かるのだろう。


ⓑ中央のドームは輪郭が八角形で、礼拝室にはこの四隅にだけムカルナスがある。
詳しくは後日忘れへんうちににて


そのドームの下に⑤ムアッズィン用マッフィル、入口側に女性用マッフィル

柱頭が二つ重なっていて、多分花とアカンサスの葉を描いているのだろう。何ともほのぼのとする装飾。



ⓒミフラーブのあるドームはトルコ三角形 
『トルコ・イスラム建築』は、壁の一定の高さの所から天井に向けて三角形の面を斜めに繰り出して、天井に正多角形を作り、ドームを載せる方法という。
今までありそうでなかった珍しいものを見ることができた。このトルコ三角形によるドーム架構法については後日


何をしていたのか自分でも理解に苦しむが、ミフラーブ壁全体を写していなかったので、女性用マッフィルの二階から写したもの。ランプでミフラーブが見えないけれど。
そうそう、左端のカリグラフィーの下にあるのが、現地ガイドのギュンドアン氏が言っていたイマームが説教をする台で、梯子がかかっている。

近くで撮影。ミフラーブは大理石だけ。しかも同じ形のものが二重になっている。

ステンドグラス

中央のパネル上部は紺色の帽子を被ったおじさんの顔のよう。怒っている。

その下には向かい合ったおじさんの横顔とか。
水色や青のガラス片にうねりがある。


ミンバル(説教壇)
この装飾はこれまでみたことがないものだった。その上左右で文様が違いますねん。後日忘れへんうちににて

頂部の尖り屋根


左へ
ⓓのドーム
黒っぽい部分がオリジナル。針葉樹(糸杉?)と広葉樹が交互に描かれ、四隅のペンデンティブには赤い実をつけた枝垂れた木

その下にはスルタンのマッフィル
上階の出っ張りを大理石の華奢な円柱で支えている。


ⓔのドーム
ドームの大きさは皆同じだが、壁画はそれぞれ異なり、こんなに小さなものもある。周囲も黒ずんでいるので、古いものかも。中心の文様と縁の文様の間に広い空白があるのも古い様式のよう。
詳しくは後日忘れへんうちににて

その下の壁のカリグラフィーにはスルタンの花押(トゥーラ)
このモスクを完成させたメフメット一世のものだろう。


ⓕのドーム
空白部分はⓔのドームに次いで広い。詳しくは後日忘れへんうちににて

ドーム下から斜め右方向
失礼ながら、カリグラフィーというよりもカリカチュアに見えるものも。

その下の女性用マッフィル。角に階段を見つけたので二階に上がってみた。

ちょっと高くなって、手すりも他のところより前に出ているのがミフラーブの正面。

ⓓのドーム下の⑦スルタンのマッフィルは緑色に見えない。


ミフラーブの正面よりⓐⓑⓒのドーム下。

ⓐドームを見上げると、先ほど外から見上げた明かり取りの窓が見えた。

ⓖⓗⓘのドーム下

と見学して下りていった。


その後はⓖのドーム
文様部分は広がってきた。後日忘れへんうちににて


ⓗのドーム
中心の文様はⓕのドームくらいの大きさ。黒っぽい部分がオリジナルか、古いものだろう。
詳しくは後日忘れへんうちににて


ⓘのドーム
外側の丸い文様とその間の樹木の地は白いものの、ドーム全体に文様が描かれている。
詳しくは後日忘れへんうちににて





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参考文献
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社