①セミリエジャーミイ ②ユチュシェレフェリジャーミイ ③ソコルルメフメトパシャハマム ④アリパシャチャルシュ ⑤ベデステンチャルシュ ⑥リュステムパシャケルヴァンサラユ ⑦エスキジャーミイ ⑧ムラディエジャーミイ ⑨エディルネ宮殿 ⑩バヤズィット二世キュッリエ(複合施設)II. Bayezid Külliyesi ⑪バヤズィット二世キュッリエ橋 II. Bayezid Külliyesi ⑫ヤルヌズギョズ橋 Yalnızgöz ⑬ガズィミハルジャーミイ Gazimihal Camii ⑭ガズィミハル橋 Gazimihal Kpr.
ホテル前の停留所で探しても路線図も時刻表もなかったので、日本でエディルネ市の路線バスから Beyazid Külliyesi-Orduevi-Margi を運行する路線3Aを探し出して印刷して持ってきて助かった。
ただし、路線図のDとその名称が記されているだけがバス停の全てではない。左下の黄色い欄に小さな文字で記されているのが全部バス停なのだった。
①食品庫の方に行ってみた。こんもりと高い小ドームが並ぶ建物。
扉が閉まっていたので入れなかったが、かなりの備蓄ができそう。左側に建物は続いてL字型になっているのは②台所。
大理石の縞模様とムカルナス、そして能書家による碑文
その天井にはこれまで見られなかった八方の花から展開するムカルナス状の装飾が。
⑦礼拝室(大ドーム)
入口の反対側にも女性用マッフィルがあったので上がってみた。
ミナレットのバルコニー下には複雑なムカルナス装飾
ミナレットは裾をトルコアーチのある壁龕が巡っていた。トルコ襞でもなく、八角形を上方ですぼめ、その上で更に二倍の多角形にしている。
タブハネよりも突き出した礼拝室。
エディルネ ムラディエジャーミイ←
運良くそれほど待たずに3A線のバスはやって来た。街中を通り過ぎ、やがてトゥンジャTunca 川に近づくと高架の道路を建設中で、ガズィミハル橋 Gazimihal Kpr. や川を写し損ねた。
その後住宅街を通り抜けて、無事 Beyazıd Külliye 前のバス停で下車した。入口の左手にある石造りのものはシャドゥルヴァン(清めの泉亭)で四角いのは腰掛け。
バヤズィットジャーミイキュッリエの説明パネル
①食品庫 ②台所 ③イマレット(救貧食堂) ④スルタンの門 ⑤カフェ・土産物屋 ⑥モスク ⑦タブハネ ⑧病院 ⑨医学メドレセ
『トルコ・イスラム建築』は、バヤズィット二世(在位1481-1512)は1484-88年にエディルネにキュッリエを建設した。ファーティヒ・キュッリエシの影響を受けたといわれる。イスタンブルではなく、エディルネに建設したということは、イスタンブルに遷都したとはいえ、エディルネが重要な都市であった事を物語っている。市街の中心部からは西に遠く、トゥンジャ河を渡った川岸の低地に建設した。河の氾濫のため何度も被害を受けたが、ハマムなどは現存しないものの、河に架け直した石橋を含め、キュッリエの大部分の建物群は良い状態で残っている。オスマン建築のキュッリエとしては最も優れたものの一つである。
キュッリエの建築家は、バヤズィット二世の時代に活躍したミマール・ハイレッディンである。キュッリエの全体プランが独創的であるとともに、中心となるモスクにも新しい試みがなされたという。
イスタンブールのベヤズィットジャーミイ(1500-06)より以前に建てられている。
入口を入ると正面に⑥モスクが見えたが、
すぐに⑥モスクへ向かったが、全体の写真を写そうとすると、木々の向こうから写すしかなかった。
平面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より
①正面入口 ②中庭 ③シャドゥルヴァン ④回廊 ⑤礼拝室入口 ⑥ソンジェマアトイェリ ⑦礼拝室(大ドーム) ⑧ミフラーブ ⑨ミンバル(説教壇) ⑩スルタンのマッフィル ⑪女性用マッフィル ⑫タブハネ(修行者の宿泊施設が、無料宿泊施設になった) ⑬ミナレット
『トルコ・イスラム建築』は、正方形の礼拝室を中心に、その両側にタブハーネを付設し、前方に回廊で囲まれた中庭を配置し、ミナレットは回廊より外側で、タブハーネの外側の隅に置いたプランである。
礼拝室は、外からは立方体に見える建物の上に、直径20.5m高さ約30mのドーム屋根が載る。
タブハーネは、礼拝室とも回廊とも壁を共有しているが、いずれとも出入口を持たず、出入口は外の側面にある。内部は9個のベイに区分され、これが小ドームで覆われている。中央の空間に向かって四方向からイーワーンが開かれているが、この形式はイランからの影響で、1472年に建てられたイスタンブル・チニリキョシュクにも適用されたプランである。隅の小部屋にはイーワーンから通じている。ウチュシェレヘリジャーミとファーティヒジャーミシでは、逆T型モスクにあったザーヴィエがなくなっていたが、バヤズィットジャーミシではタブハーネとして宿泊施設を復活している。バヤズィット二世がスルタン位を獲得したとき以来、デルヴィシュの影響が強かったためかもしれないという。
⑫タブハネも見学したかったが、どこから入れば良いのか分からなかった。
入口から②中庭と⑦主ドーム大ドームのまわりに重量塔などがないのですっきりとはしているが、直方体から移行部が見えずドームがのっていると、何か足りない印象を受ける。
『トルコ・イスラム建築紀行』は、礼拝室は、外からは立方体に見える建物の上に、直径20.5m高さ約30mのドー ム屋根が載る。
中庭は、礼拝室とタブハーネの合計よりずっと広い面積をしめていて、ドーム屋根の回廊で囲まれ、中央にシャドゥルヴァンがあるという。
ムラト二世が建てたユチュシェレフェリジャーミイ(1437-47)のドームの直径24.1mには及ばない。
『トルコ・イスラム建築』は、4本のピアの上に屋上に突き出た太い重量塔を載せ、ピアの安定性を高めるものという。
バヤズィット二世はイスタンブールにベヤズィットジャーミイ(1501-06)を建てていて、その主ドームの四方には二段にわたってこの重量塔がのっている。その主ドームは直径17.5mで、エディルネのモスクの方が大きい。
正方形からドームの円形にどのように移行させているのだろう。⑥ソンジェマアトイェリには八角形の移行部があるのに。
その小ドーム捻れた傘のよう
⑤礼拝室入口
扉はキュンデカリ技法
後にイスタンブールに建てたベヤズィットジャーミイやその墓廟(1512)には木片ピース以外のものは用いられなかったが、ここでは象牙や寄木細工のようなものが見受けられる。息子のヤウズスルタンセリムジャーミイの墓廟にはにたような材質が嵌め込まれている。
『トルコ・イスラム建築』は、中からは壁の四隅からペンデンティブが立ち上がって四つの巨大なアーチを造るという。
四つのペンデンティブからドームが架構されるのはイスタンブールのアヤソフィア(アギアソフィア聖堂)と同じ。しかし、アヤソフィアの大ドームは前後二つの半ドームで補強されているが、ここにはそれがない。
『トルコ・イスラム建築』は、アーチの下のティンパヌンに10個の小窓を開けている。この窓とドームの裾に空けた24個の小窓等からの光が礼拝室を明るくしているという。
四つのペンデンティブだけで大ドームを支え、四壁(ティンパヌン)には窓が多いというのは、後年ミマールスィナンによって建造されたエディルネカプのミフリマースルタンジャーミイに似ている。窓の数はもっと多くなっているが。⑧ミフラーブ
ミフラーブ本体はずんぐりして低い。大理石製だが、滴のような飾りは金属かも。
⑩スルタンのマッフィル
修復中のようだったが、柵がなかったので入ってみた。
壁面は素っ気ないが、タンパンには輪っかを縦横に配置した透彫があった。
①入口と⑪女性用マッフィル入口の反対側にも女性用マッフィルがあったので上がってみた。
タブハネの内部はチャハール・イーワーン形式で建てられている。それについてはこちら
俯瞰写真。タブハネの小ドーム一つ分くらい出ている。
『トルコ・イスラム建築』は、一対のミナレットはバルコニーが一つで、直径3.25m、高さ38mと、細く高く尖ったオスマン形式が定着しているという。
ミナレットは裾をトルコアーチのある壁龕が巡っていた。トルコ襞でもなく、八角形を上方ですぼめ、その上で更に二倍の多角形にしている。
タブハネの出入口は閉まっていた。
エディルネ ムラディエジャーミイ←
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イスタンブール ベヤズィットジャーミイとその墓廟参考にしたもの
現地の説明パネル
参考文献