お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2010年12月20日月曜日

2-3 パラティーノの丘、スタディウムはドミティアヌス期

目を右にずらせるとスタディウムの南東角が見えた。
スタディウムの北東角まで戻ると、パラティーノの丘には珍しい案内図があった。上の写真がどこから撮ったかほぼわかる絵だ。黒い円の中にコップと蛇口のイラストは、飲み水が出る場所だと思う。
『ROMA』にはスタディウムと書かれているのでそのまま使ったが、『ローマ古代散歩』は競技場(あるいは乗馬庭園、ヒッポドロムス)だった。乗馬庭園にしては皇帝観覧席が立派過ぎるし、競技場にしては狭い。長辺に平行に並ぶ角柱の残骸は柱廊だったので、実際はこれよりも狭かったのだから。
『ローマ』は、トラックは中心標で分けられ、ゴールのひとつが今でも見分けられるという。北側にあるこの半円のものがゴールか。
スタディウムの西隣はドムス・アウグスターナと呼ばれる皇帝宮殿の私邸部分。その向こうの白い建物は博物館。
今でも柱廊の一部が残っている。角柱に半円の付け柱がある。
柱廊の天井は不完全なヴォールト天井で、内側には四角い刳りが並んでいる。北側の柱廊は失われているが、少し天井の低い部屋があるようだ。これが、更衣室や運動具室(『ローマ古代散歩』より)らしい。
北西部からやっと皇帝観覧席が見えた。皇帝観覧席については次回。
『ROMA』は、ドームス・アウグスターナの東側に広大な穴があるが、スタディウムと通常呼ばれている。ドミティアヌス帝時代に造られたもので、円形競技場の形をしていて、二階建ての荘厳な柱廊で囲まれ、東側に皇帝の観覧席が設けてあった。角柱と全ての煉瓦構造は大理石で覆われ、二階は円柱でできていたという。
それにしても皇帝観覧席の巨大さが不釣り合いなように見える。
卵形の変わった囲いは、東ゴート族のテオドリック王の時代のものらしいという。競技場にしては柱廊との隙間もなく、小さいなあと思っていたが、こんなところでテオドリックの名前が出て来るとは。
スタディウムの西北側では発掘あるいは復元作業が行われていた。
スタディウムとドムス・アウグスターナの間にこのような大理石の舗床モザイクが残っている。宮殿ではこのような大理石を幾何学形に切って組み合わせたものを舗床にしていたのことがわかった。舗床モザイクといえば切石(テッセラ)を組み合わせたものと思っていた。このような舗床モザイクは、王宮独特の物だったのかも。
ポンペイ出土の有名なアレクサンドロスとダリウスⅢのイッソスの戦いを表した舗床モザイクの一部はこちら

※参考文献

「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)