お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年1月24日月曜日

7-5 フォロ・ロマーノ、セプティミウス・セウェルスの凱旋門(Arco di Settimio Severo)

セプティミウス・セウェルス(在位193-211年)の凱旋門は聖なる道(Via Sacra)側から行くことができなかった。
中央広場も、この辺りまで来ないといろんなものが邪魔をして、凱旋門全体を写すことができない。ここでも、㉓フォカス帝の記念柱(Colonna di Foca)の台座が邪魔。
凱旋門は修復中らしく、側面が養生されていた。
立入禁止の場所が多く、遠回りの連続だ。

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突き当たりには⑲サトゥルヌス神殿(Tempio di Saturno con erario)の高い基壇と円柱。その前の柵の中にも何かがあるらしく、前を通る人はみんな立ち止まって見ていく。
アーチが並んでいるので、何かの遺構だろうが、右の饅頭型の遺物は何だろう。砕石がコンクリートで固められたようなものだ。
下図では⑭金のマイル標石(Miliarium Aureum)がこの辺りにあるらしい。
しかし、『ローマ古代散歩』は、アウグストゥスが立てた金塗りの青銅柱で、首都から主要都市への距離が記されていたという。
この正体不明の遺構を過ぎて、やっと凱旋門に近づけそうだ。
途中に丸い基壇のようなものがあった。UMBILICUS URBIS ROMAEと書いてある。⑫ローマの臍だ。
ロストラの後ろにはローマの中心を示した遺構が2つあり、名札がついている。門の間近にあるれんがの塊はローマの臍と呼ばれて、冥界との接触点と考えられ、付近には種蒔きと農耕の神⑬サトゥルヌスに貢ぎ物をする祭壇もあった。もう1つは、金のマイル標石の台座であるという。
祭壇は気づかなかったが、確かにローマの臍と同じような名札があったので、さっきの饅頭型の塊がマイル標石の台座だろう。この辺りが起点となって各ローマ街道にマイル石が置かれたのだ。
やっと凱旋門の前まで来たというのに、柵があってこれ以上近づけない。それに正面からは近すぎて全体を撮ることができない。
セプティミウス・セウェルス帝(在位193-211年)の凱旋門は、パルティア人に対する戦勝記念碑(203年建造)という。
北西側の浮彫は、2段目に兵士がいるので、ローマ軍がパルティアに船で到着して、戦闘を繰り広げているのだろう。
南西の浮彫はパルティア軍に勝利した場面だろうか。
アーチ内側の装飾は四角形の区画にアカンサスの葉が巡り、中央には花が高浮彫されている。それも1つ1つ別の花になっている。
凱旋門の柵には、注意書きらしきものが、あれこれ図解されている。観光客向けかと思って写したが、工事関係者用らしい。我々がヘルメットを被ったからといって、中には入れてもらえないだろう。
少し離れると凱旋門に取り付けられた円柱の基壇が見えた。高いものは見上げるので、下の方を見忘れがちだ。

※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)