お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2013年10月23日水曜日
デルフィ1 まずはアテナ・プロナイアの神域から
この日も朝から快晴。
『古代ギリシア遺跡事典』は、デルフィの遺跡は、主として、聖山パルナッソスの南部の急斜面に営まれたアポロンの神域を中心に、その東側にひろがるアテナ・プロナイアの神域、ギュムナシオン、カスタリアの泉からなる。1892年にフランスが神域の上のカストリ村を丸ごと移動して建設した現在のデルフィ村は、神域の1㎞ほど西にあり、神域から村に向かう道の途中に考古博物館がある。
古代には瀆神の罪を犯した者をその頂上から突き落としたという、屏風のようにそそり立つファイドリアデスの岩壁を背に、ギリシア一と言われるオリーヴ樹海とその向こうのコリントス湾の碧い海を見はるかすその神秘的な神域は、昔も今も、訪れる者に畏敬の念を呼びさます。古の巡礼者と同じように、まず前神域であるアテナ・プロナイアの神域を訪れ、巡礼者が身を浄めたカスタリアの泉を通って、アポロンの神域を訪ねてみたいという。
私もそうしてみよう。
同書は、別名「アルマリア」(大理石を意味する「アルマロス」にちなむ)とも呼ばれるアテナ・プロナイア(神殿の前のアテナ)の神域は、主神域であるアポロンの神域の1㎞ほど南東に位置する細長い長方形の神域(約30mX約100m)で、デルフィに詣でる人々がまず訪れる前神域の役割を果たしていた。
この神域には、主として5つの建造物の遺構が並んでおり、東側にはアテナ・プロナイアの古神殿の遺構があるという。
①がアテナ・プロナイアの古神殿
説明板にはそれぞれの建物の想像復元図があったが、もちろん今では基壇だけしか残っていない。
遺跡の見学はオリーブの森の中につくられた通路を下りて行くことになる。
明るくなった先にトロスがまず見えてきた。
森を抜けて最初にある遺構は⑦前5世紀の建造物。
基壇ではなく、石材が適当に並べられたまま。
⑥アテナ神殿 前380または330年頃
『DELPHI』は、前面に6本の円柱があるドーリス式で、パルナッソス産の硬い灰色石灰岩で造られた。6世紀の前身の神殿(①)よりも単純で厳格な外観で、唯一の独自の特徴は、前室(プロナオス)から内室(ナオス)への入口に2本のイオニア式円柱があったことだ。前室にはマッサリア人が奉納品として青銅像を安置していた。また、リュディアのクロイソス王が奉納した金の楯もあったという。
リュディア(前547年滅亡)のクロイソス王(前560-547年)はこのアテナ神殿が建立されるよりもずっと前の人物。アテナ古神殿に奉納されていたものを移したのだろうか。
プロナオスの床が見えている。
通路を挟んで崖側にはその石材が並んでいた。
グッタエ(露玉装飾)付きの小板(ムトゥルス)も並んでいた。
軒先に木釘で留められた垂木を表している(『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』より)というが、石造になると全てが浮彫で表され、ムトゥルス自体も装飾の一つと化してしまった。
⑤ トロス 前380あるいは前330年頃
今回の旅行で3つめのトロス。
『DELPHI』は、前380年頃あるいはおそらく前330年、建築家はフォカイアのテオドロスだった。様々な石材(ペンテリコン産大理石、黒石灰岩、暗い色の大理石)が使われたが、建築的な線や様式も様々だった。トロスは3段の基壇の上に立っていた。外側は12本のドーリス式円柱が列をなし、エンターブラチュアにはメトープとトリグリフがあった。ケラ(内室)の外壁にもトリグリフとメトープがあった。そこにはヘラクレスとテセウスの冒険が浮彫されていた。
内部には黒石灰岩の低い壇の上に10本のコリントス式円柱が立っていた。トロスの床は黒い石灰岩の厚板が敷かれ、その中心には白い輪があった。ケラの屋根は円錐形で、大理石製のタイルが葺かれていたという。
平面図
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、トロスは円形のナオス(神室)とその内外に同心円をなす円形列柱で構成される円堂で、上部は円錐形の屋根で覆われた。オーダーを備えた円形神殿はすでに前6世紀初めに確認できるが、トロスの重要な作例は、復原されたこのデルフォイのほか、エピダウロスとオリュンピアにとどまり、後2者は基壇ないし基礎のみが残るに過ぎない。デルフォイのトロスは外側にドーリス式列柱、内側にコリントス式列柱を備え、コリントス式柱頭の意匠、ナオスに接する内側列柱の配置、天井格間の形状などバッサイ・フィガリアのアポロン・エピクリオス神殿の影響がみられるという。
内室のコリントス式列柱というが、壁面ぎりぎりに配置されていて、エピダウロスのトロスのような列柱空間があるわけでもなく、かといって、オリンピアのトロスのように、付け柱が目立たないほどではない。両者の中間のような形になっている。
そのような違いは、ひょっとすると内部の広さに関係があるのかも知れない。
説明板の内部想像図
円柱は独立して立てられたのかも知れないが、壁面にくっつくくらいに立てられたなら、コリントス式柱頭は壁面側部分は彫られていないような気がする。
内側のフリーズには途切れなく浮彫されていたようだ。
天井は平たく、浮彫のある三角形の格間が嵌め込まれていたらしい。
考古博物館にあったトロスの想像復元図
コリントス式柱頭の付け柱と柱礎
え、これがコリントス式?
3段のアプシスの葉が控えめ。渦巻から伸びる蔓が、向こうの蔓と合わさって、花弁のような形を作っているような。
上部構造が部分的にしろ残っていたのは幸いだった。
『DELPHI』は、ドーリス式円柱の上のメトープには、アマゾネス族の戦い(アマゾノマキア)とケンタウロスの戦い(ケンタウロマキア)が表されていたという。
今まで見てきた軒飾りがアカンサス唐草が横にしか伸びないのに比べると、トロスの軒飾りは高さがあるので、斜め上へと成長する余地がある。
唐草の中央には、やはりライオンの樋口があって、小さめのパルメット形のアクロテリオンが載せられている。
この唐草の蔓の様式からみて、トロスの制作年代は、前380年頃よりは前330年頃の方だろう。
軒裏のグッタエもしっかりと彫り出されている。
見学では見られなかった反対側
内室は小さな空間だったようだが、いったい何のための建物だったのだろう。
前330年頃といえばアレクサンドロスはすでに遠征中なので、オリンピアのフィリペイオンに続いてこのトロスを建ててはいないだろう。
トロスの東側にも遺構が並んでいる。
④ マッサリア人の宝庫 前540-500年頃
マッサリアは現在のフランスのマルセイユ。
『DELPHI』は、フォカイア人の都市国家。2本の優美なイオニア式円柱が立つイン・アンテス式で、アエオリア風の独特の柱頭が載っていたという。
崖側からみたマッサリア人の宝庫(右)と
③ ドーリス式宝庫(左) 前470年頃
二柱式のイン・アンテス式前室がある。ペルシア戦争(前480-470年)後にポロス石(凝灰岩)で建てられたという。
① アテナ・プロナイア神殿
最初の神殿はドーリス式で、前7世紀にポロス石で建立された。破壊の後、新たにポロス石の神殿が再びドーリス式で同じ場所に再建された。この神殿は周柱式で、6柱X12柱だった。2柱のある前室があったが、後室はなかった。この神殿も、前373年の地震で、ファイドリアデス山の崩壊で破壊された。この場所は危険とみなされて放棄され、別の位置に新神殿が建立されたという。
その新神殿が⑥アテナ神殿である。
オリンピアからデルフィへ← →デルフィ2 アポロンの神域1 シキュオン人の宝庫
関連項目
ギリシア建築7 円形建造物(トロス)
オリンピア12 オリンピアのトロスはフィリペイオン
ペロポネソス半島3 エピダウロス4 トロス
エピダウロス3 考古博物館に神殿の上部構造
デルフィ11 デルフィの町とギュムナシオン
デルフィ10 アポロンの神域9 スタディオン
デルフィ9 アポロンの神域8 劇場
デルフィ8 アポロンの神域7 アポロン神殿
デルフィ7 アポロンの神域6 デルフィの馭者像
デルフィ6 アポロンの神域5 青銅蛇の柱に載っていたのは鼎
デルフィ5 アポロンの神域4 ハロースに埋められていたもの
デルフィ4 アポロンの神域3 アテネ人の宝庫
デルフィ3 アポロンの神域2 シフノス人の宝庫
※参考文献
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「DELPHI」 ELENI AIMATIDOU-ARGYRIOU 2003 SPYROS MELETZIS