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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年10月14日月曜日

ペロポネソス半島5 オリンピア10 スタディオンの西に並ぶもの


ヘラの祭壇とスタディオンの間にも遺構が並んでいる。

28 メトロン(メトロオン) 前4世紀
『オリンピアとオリンピック競技会』は、前4世紀に属するメトロンは、神域のなかではヘラ神殿、ゼウス神殿に次いで3番目に建てられた神殿であり、神々の母に捧げられていた。これには大地母神ガイアの信仰が受け継がれていたと考えられる。ゼウスの神域が築かれる以前からこの地ではガイアが信仰されていて、ガイアに捧げられた神域(ガイオン)がクロニオンの丘の麓にあったと言われている。
メトロンが建設された年代は明らかではないが、北側の少路(スタディアムの入り口へ導く路)に一列に並んでいた何体かのゼウス像(ゼウスの複数形で、ザネスと呼ばれている)の建立と同時期であったとみられている。ザネスが初めて建立されたのは、前388年(パウサニアスによれば、98回目のオリンピック競技会が開かれた年)であることから、メトロンもこの年代までには建てられていたと考えられている。メトロンの建築上の特徴もこの年代に相応しているという。
クロニオン(クロノス)の丘が北側に見え、宝庫群が一段高いところに並び、そしてメトロンは目の前の平たいところに建っていた。
宝庫群の高さより見下ろす。
20.67X10.62m 6X11柱のドーリス式神殿
『ギリシア美術紀行』は、ゼウスの母なるレア(キュベレと同一視される)を祭る神殿。アテナイの盛期クラシックの神殿群とペロポネソスの後期クラシックの神殿群との中間に位置する前4世紀初頭の小神殿という。 

メトロンの東、石垣の南側に並んだ石は建物の遺構ではない。

29 ザネス 前4-1世紀
『古代ギリシア遺跡事典』は、これらの上には、かつてザネス(ゼウスのドーリス方言であるザンの複数形)の像が立てられていた。ザネス像は、競技会で贈賄などの不正行為に及んだ選手たちから取り立てた罰金によってエリス人が奉納したもので、パウサニアスによれば、像には「オリュンピア競技会の優勝は、金銭の力によってではなく、脚の速さと身体の頑健さによって獲得されなくてはならない」といった警句が刻まれていたという。

40 反響のストア 前4世紀後半-前1世紀 98X12.5m
スタディオンのアーチ状入口の右側に長々と続くストアがあったらしい。
『ギリシア美術紀行』は、ローマ時代には「七度音を返す反響廊(ヘプタフォノン)」、当初は東壁に絵が描かれていたことから絵画廊(ポイキレ)と呼ばれた二廊式列柱廊。外側の列柱はドーリス式、内側のそれはイオニア式という。

スタディオンを見学後、ヴォールトの通路ではなく、北側の丘を通っていると、ヴォールト天井の落ちた箇所とアーチ形に残ったところがよく見えた。
反響のストアの壁も見えていたのだった。
ヴォールト天井は切石をしっかり固定するために、上下で凹凸をつけて、組み合わせていたことがよくわかる。

33 宝庫群
どれが一つの宝庫なのか、全くわからなかった。
最初の大きなものは、M:ゲラ人の宝庫かも
上の方が調査中。
切石の礎石が前の方に出ているので、I:ガイアの祭壇かも。
右向こうに壁と円柱が見えているが、階段があるので下りてしまった。
『オリンピアとオリンピック競技会』は、前6世紀に、小神殿型の建物がクロニオンの丘の裾に位置する段状の地に築かれた。都市から奉納された高価な品々がその中に収められていたことから、宝庫と呼ばれていたという。

『ギリシア美術紀行』は、これらの宝庫群はB・C・Eが前5世紀前半に属する以外、すべて前6世紀の奉献にかかわるもので、オリュンピアのアルティスの歴史にあって蒼古とした由緒をもっている。寄進主のポリスがシシリアC・J・M、南イタリアF・K、アルバニアDと圧倒的に西方ギリシアに属しており、アルカイク時代のオリュンピアの西方世界との結びつきが理解できる。またシキュオンとメガラ(Eはメガラの植民地)以外すべて植民地であること、そしてこれらを含めたすべてがドーリス系民族のポリスであることも注目に値する。しかもこれらのポリスはアルカイク時代、僭主制によって盛期を迎え、以後急速に衰退していった場合が多く、パウサニアスの時代には、宝物も貧弱なものしかなく、寄進したポリスにも、聖域の主ゼウスにもあまり関係ないものばかりだったようであるという。 

宝庫がどのポリスのものかは、ほぼ判明している。
A:宝庫群と丘の間のエイレイテュイア(お産の女神)の聖所、B:シキュオン人の宝庫、C:シュラクサ人の宝庫、D:エピダムノス人の宝庫、E:ビュザンティオン人の宝庫、F:シュバリス人の宝庫、G・H:いずれかがキュレネ人の宝庫、I:ガイアの祭壇、J:セリヌス人の宝庫、K:メタポンティオン人の宝庫、L:メガラ人の宝庫、M:ゲラ人の宝庫としている。

B:シキオン人の宝庫 想像復元図 前5世紀前半
『オリンピアとオリンピック競技会』は、西側の端の宝庫は、東ペロポネソスのコリントスに近い都市シキオンの人々によって建てられたものである。この当時、シキオンは僭主クレイステネスのもとで大いに繁栄していた。
外観は、デルフィのアポロンの神域に奉納された宝庫と同じように、ドーリス様式の小神殿型である。破風は彫刻で装飾され、フリーズには浮き彫りが施されていた。屋根は修復されているメガラ人の宝庫に見られるように、瓦で葺かれたラコニア様式であるという。
B:シキオン人の宝庫はドーリス式円柱は長めのドラムを積み重ねたものが1本だけ復元されている。
C:シュラクサ人の宝庫は、破風の上中央の2枚と、その下のトリグリフと彫刻のないメトープが幾つか残っている。
L:メガラ人の宝庫は、神々とギガンテスの戦いの場面が描かれいる石灰岩の破風彫刻は、前6世紀後半と年代づけられているという。メガラ人の宝庫と、M:ゲラ人の宝庫の破風はオリンピア考古博物館に展示されている。それについては後日。

宝庫より西側、ヘラの祭壇の北側の遺構はニンフェオンと呼ばれている。
『OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS』は、後160年に、芸術のパトロンであるヘロデス・アッティコスと妻のレギッラが寄贈した水供給システムである。その対策は特にオリンピック競技会の間は深刻だった水問題を解決した。ニンフェオンは後陣のような二階建ての建造物(直径16.62m)で、前面に2つの貯水槽があり、一つは半円で、もう一つは長方形で高さが異なっていた。壁の表面は彩色された大理石で覆われた。二階建てのそれぞれの階は11の大理石製彫像が置かれた壁龕があった。上の階はヘロデス・アッティコスの家族の肖像、下の階はアントニウス・ピウスとその家族の肖像があった。どちらの階も中央にはゼウス像が安置された。上の貯水槽の中央には大理石の水のシンボルである牡牛が立っていた。下の長方形の貯水槽の両端には、コリント式の柱廊のある小さな円形の建物があった。どちらにも(ヘロデス・アッティコス、アントニウス・ピウスまたはマルクス・アウレリウスの)彫像があった。2つの貯水槽は、広範囲の地域の複数の丘に湧く泉から水道管で水を集めたという。


牡牛像と数体の彫像がオリンピア考古博物館で展示されている。
後補と思われる牡牛の腹部の下の支えは、もう少し何とかならないものだろうか。
反対側に回ると脚が2本ともなかった。胴部にはどのような言葉が刻まれているのだろう。

オリンピア9 ヘラ神殿界隈←                     →オリンピア11 宝庫の軒飾り・棟飾り

関連項目

オリンピア8 博物館4 青銅の楯
オリンピア7 博物館3 ゼウス神殿のメトープ
オリンピア6 博物館2 ゼウス神殿破風の彫刻
オリンピア5 ゼウス神殿
オリンピア4 博物館1 フェイディアスの仕事場からの出土物
オリンピア3 フェイディアスの仕事場
オリンピア2 オリンピック競技のための施設
オリンピア1 遺跡の最初はローマ浴場

※参考文献
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事出版社
「OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS」 OLYMPIA VIKATOU 2006年 EKDOTIKE ATHENON S.A.