チョルム博物館の中庭と館内はÇORUM MÜZESİで見ることができます。
チョルム博物館のPDFによると、チョルム周辺アラジャホユックやクシュサライの出土品ということだ。
説明パネルは、農耕を基盤とした生産と定住した村落生活が継続し、人々が畜産や農業に従事し、金属加工技術も習得していた時代であり、アナトリアでは地域ごとに文化構造が異なっていた。地域特性が顕著になり、急速に都市化が進んだこの時代は、アナトリアにおいて前期、中期、後期の三つの段階に分けられるという。
容器類
初期青銅器時代(前3000-2000年頃)
中庭にも展示されていたレスロールの墓の一つの出土品
説明パネルは、墓の大部分は北東から南西にかけて位置しており、遺体はスクラム体位、つまり膝を腹の方に曲げた姿勢で埋葬されていた。レスロールの住民の来世信仰を示唆する手がかりとして、死者への副葬品に土器、金属製の武器、日常生活で使用されていたものや装飾品などで構成されていた。これらの副葬品は墓の内外に残されていたという。
甕棺と土器
中央の展示室には初期青銅器時代(前3000-2000)の王墓Lが実物大に復元されていた。
チョルム博物館のPDFは、ヒッタイト人以前のアナトリア先住民つまりアナトリアにおける高度な文化の担い手であるハッティ人達が活躍したのは、前期青銅器時代(前3000-2000)であるという。
それはヒッタイト人ではなく、先住のハッティ人の王墓とされ、ヒッタイト人のような印欧語族ではなかったと言われている。
アラジャホユックL墓
アラジャホユックL墓を実寸大に復元している。そして墓内にあった人骨、祭祀用のウシ、シカ形製品、サンディスク、装飾品や墓の上に犠牲獣(死者の食物)として捧げられたウシの頭部を実物同様に展示しているという。
詳しくは後日忘れへんうちににて
次に狭い通路に入ると大きな壺類が並んでいた。ここからはヒッタイト時代
貼付文装飾付き壺 古ヒッタイト時代、前1650年頃
説明パネルは、青銅器時代の土器はヒッタイト人によって途切れることなく継承された。日常生活で使われた壺は、礼拝用に設計された壺とは容易に区別できる。礼拝用の壺は器壁が薄く、金属のような光沢がある。その上立体的で、彩色などが施され、牛の彫刻、神や女神の像など、宗教的なものもあるという。
これに似た壺は『世界美術大全集東洋編16 西アジア』にあったが、その作品はアンカラのアナトリア文明博物館が所蔵しており、後日実物を見学した。「貼付文装飾付き壺」については忘れへんうちににまとめます。
もう一点は頸部の貼付文装飾が残っている程度で把手も失われている。
単把手長頚壺 前16世紀頃
扁平なものは把手に帯を付けて背負ったことが図解されている。立てるでもなく、横向きに置くでもなく、微妙な展示の仕方。
角を曲がって右側にある展示ケースには、
様々な用途の土器類
その先にはヒッタイト帝国の都ハトゥシャの小さなジオラマ(ケースに反射して何かわからない)と、壁には平面図があった。
これを見ると、等高線のお陰でハトゥシャはかなり高低差や凹凸のある街だと分かるが、現地では想像以上だった。
突き当たりにはトゥトハリア二世期(前1375-55年頃)の出土物
❶ステラ(碑文が刻まれた石碑) ❷石壁 ❸石用ドリル(展示されていない) ❹石用ドリル ❺石斧(見えない) ❻トゥトハリア王の浮彫
❶ステラ 前1450-1200年
アナトリア象形文字で記させた碑文 説明パネルより
「偉大な王、トトハリア、英雄、
ハットゥシリ、偉大な王、英雄、息子、
ムルシリ、偉大な王、英雄、偉大な?息子、
トトハリア、偉大な王(?)、英雄、(子孫)...
❹石用ドリルと戦車(共に複製)
トゥトハリヤ一世銘文入り銅剣(チョルム博物館蔵、イスタンブル空港博物館に展示中)
碑文は「偉大なる王トゥトハリアがアシュワ国を破壊した時、彼はこれらの剣を嵐の神、彼の主へと捧げた」と書かれている。
この作品は展示のためイスタンブール空港博物館に一時的に送られていますとのこと。どうも本物ぽく見えなかったはずだ。
『ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』は、トゥトハリヤ一世は即位直後から精力的に遠征を繰り返し、特に西方で成功を収めたらしく、戦車600両、1万人以上の捕虜を連れ帰ったといわれ、ヒッタイト帝国の勢力はエーゲ海にまで及ぶことになった。以前、一般的に行われていたヒッタイト帝国時代の時代区分で、トゥトハリヤ一世の以前と以後で「古王国時代」「新王国時代(帝国期)」に分けられていた所以である。
1988年にハットゥッシャ(ボアズキョイ遺跡)での道路工事中に偶然発見された銅剣には、トゥトハリヤの名と共に、「アスワ(またはアシュワ)国」(トルコ西部にあった国の一つ)を討伐した際の奉納品である旨の楔形文字の銘文が刻まれていた。この銅剣はアナトリアではなく、バルカン半島やギリシャ方面で使われていた型式のものであり、トゥトハリヤ一世による西方遠征の際の戦利品であると考えられている。ちなみに、この「アスワ」という地理的名称が、古代ギリシャを経て、現在私たちが使っている「アジア」という地域名の元になったとする説もあるという。
青銅製の剣や鏃 前1450-1200年
双山羊の護符 アラジャホユック出土
ブレスレット 青銅に金箔貼り
農業の守護神小像 青銅に金箔貼り
説明パネルは、片手に鳥、もう一方に杖を持っている。ヒッタイト人は、自然は生きており、無数の力に満ちていると信じ、動物、山、湖といった目に見える物体、そして嵐、雷、風といった自然現象を神々とみなしていた。この作品は、数千ものヒッタイトの神々のうち、たった一つの神を表した、他に類を見ない作品という。
女神ではなさそう。
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「アナトリア文明博物館図録」 アンカラ、アナトリア文明博物館