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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年2月11日木曜日

メルヴ3 大キズ・カラ Great Kyz Kalas


メルヴの遺跡が広大なのは、時代によって、町を隣接する土地に築くということを繰り返したからだという。
遺跡をできるだけ古い時代順にまとめていて、今回は大キズ・カラ。
遺跡への入口近くにあって、その独特の外観から、メルヴの代表のように紹介される建物の遺構である。

遺跡に行くまでにすでに見えてくる。

キズ・カラ ササン朝、6-7世紀 49X32X15m
『旅行人ノート⑥』は、ササン朝時代にこの辺りを治めた豪族の居城。まるで泥の丸太が立っているようにも見える。筋が入っている外壁は日干しレンガの半円柱の跡。この城はかつて2階建てで、屋根に覆われていた。600年以上も後のセルジュークトルコ時代にも使われた。現在は1階部分が埋もれ、土壁には鳥の巣の穴が点々と空いている。大と小の2ヵ所に分かれているという。
こちらは大きい方(南東側より)。

こんな建物の遺構に近づいていくのを期待していたが、朝見学に行くと、遺跡の北側につくられた駐車場から見えるのは、こんな日陰の姿。
あの梯から入って行く。
では、2階へ。
入って振り返る。
右側の壁には整然と積まれた日干しレンガ。ある程度は修復の手が入っている。
北西側
西壁には、部屋を区切る壁と、日干しレンガ造りなので、天井をヴォールトにするか、ドームを架けるかした痕跡が残る。
北壁には、左に1階に通じる階段とその天井、右の階段は上の階?
右階段の奥は左側から光が入っている。
回り込んでみると、
廊下が北西隅の部屋に繋がっていた。

西壁の続き
大きな穴が空いているが、右に2部屋続いていたような跡が残っている。四角い穴は灯明を置く場所だったのかな。
その右側のスキンチの大きさから判断して、この失われた壁にもう一つスキンチがあり、ドーム天井となるそれほど大きくない部屋があったのだろう。
だからここには部屋を仕切る壁もあったはず。
そして大きく欠けた壁。これで1室だったか2室に分かれていたかは分かりにくいが、内部の部屋一つ一つはあまり大きくなさそうだった。

南壁から東壁にかけては日陰になっている。こうやって歩き回っても、下にも部屋があるのだという実感はなかった。
南東の隅部屋の区切りは残っていない。
東壁南部にも大きな穴。
東壁北側には4部屋が残っていた。
東壁中央部から外に出ると、
東壁が一番崩壊が進んでいた。
カラカルパクスタンで見たアヤズカラの城壁に似ていると感じたが、アヤズカラの城壁には矢狭間があったために壁面がそこから崩れていったように見えたが、キズ・カラの壁には矢狭間はない。付け柱と付け柱の隙間で、内側は壁面となっていた。
壁面装飾としてこのような付け柱を隙間なく配置して、丸太を縦に組んだログハウスのように造ったということになる。
南東角は付け柱という装飾的なものではなく、もっと堅固な造りにするために柱状のものを付けたようだ。

南に回り込むと2ヵ所が崩れた西壁が日陰になっていた。
東西の壁は同じような箇所が崩れている。地震のせいかな。

   メルヴ2 グヤウル・カラ Guya Ulk-Kalaに最西端の仏教遺跡
                                         →メルヴ4 小キズ・カラ

関連項目
メルヴ、キズ・カラの天井架構
メルヴ7 アスカブス廟
メルヴ6 スルタン・サンジャル廟
メルヴ5 ムハンメド・イブン・ザイド廟
メルヴ1 エルク・カラ Erk-gala

※参考文献
「週刊シルクロード紀行14 メルヴ・アシガバード」 2006年 朝日新聞社
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人