お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年7月19日土曜日

7日目-7 支石墓を探して

やっぱり2つ見える。小さい島は砂浜があるのだろうか。
山房山です。中腹に山房窟寺というお寺があります。登りますか?
ちょっと止めときます
う~ん、困りましたねー、お寺には行かない。これからどうしましょうかねえ それなら明日行く予定の済州博物館に行って下さい。その前にこの支石墓を見たいのですが
何で知ったか忘れてしまったが、北済州郡涯月邑光令里というところに支石墓があるのだ。様々な形をした寄生火山が現れては遠のいていった。1135線を通っているらしい。 済州島には何本の高速道路があるんですか?
済州島には高速道路はありません。自動車道です
とはいえ、スピードは高速道並み。  これも漢拏山と違うんやね。 ビル群が見えてきた。新済州だろうか、15:03。 ここからが大変だった。キムさんは携帯であちこちに問い合わせていた。住所だけでは探し出すのが難しいようだった。 道を通る人、民家を見つけては訪ねていた。
キムさん、もういいですよ
いや、探しだしてみせます!
ある広い道路の手前で考え込んでいたキムさんは、遂に道路を渡り、狭い道を進んでいった。また民家で聞いて、しばらくその道を行くと支石墓はあった、15:22。 説明板は、支石墓は我が国の青銅器時代から人の墓として作られた。これはドルメン、コインドルとも呼ばれており、済州特別自治道では石船という伝説もある。外形は遺体を安置するように板状の石で石室を造り、その上に大きい石をのせて置いたものである。
済州特別自治道には150基余りの支石墓が分布している。これらの支石墓は韓国本土と違って築造時期が遅く、形態も特異で、材料もすべて玄武岩を使用している。
特に、支石墓は韓国本土から済州を経て日本の九州地域に伝播したものと見られる。そのため先史時代の文化交流、または移動を理解するのに貴重な資料となっている
という。
支えている石の間に遺体が安置されたんやろか?
「すごい」を連発する私と対照的に、キムさんは何の興味も抱かないようだった。