お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年8月5日月曜日

ペロポネソス半島2 コリントス遺跡3 博物館2


コリントス博物館は陶器が充実しているが、もちろん他にも見所はある。

舗床モザイク 古代コリントスの西アナプゴラ村出土 5X9m 後2世紀末-3世紀初
博物館の説明板は、ローマ時代の邸宅の食堂に比定されている。
中央の3つのパネル(現状は2つ)は鳥と果実が描かれ、立体的に見えるように構成した、複雑なメアンダー文に囲まれている。
その周囲をケンタウロス、花々、走る野生獣の入り込んだ唐草文が巡っている。
外側の円周の重なり合う装飾帯(七宝繋文)は、食事用の寝台の位置を示し、おそらく9台が置かれた。舗床モザイクに、一般的な石のテッセラに加えて、ガラスのテッセラが多く使われているのは注目に値するという。
文様帯のそれぞれに興味をひかれる。
中でも、色ガラスによる立体感のある卍繋文は、確かラヴェンナのガッラ・プラチディア廟(5世紀半ば)にもあった。それはアーチの一つに表されていて、舗床モザイクではなかった。
これについては後日、忘れへんうちににて
食堂の舗床モザイクの図面
舗床モザイク 後2-3世紀 
ローマ時代の邸宅のテッセラを敷きつめられた床の中央部分。四隅には両側に付くが伸びる高坏(カンタロス)が置かれるという。
三角を大きさを変えながら四弁花文状に組み合わせ、色を違えながら弧の中を巡らせている。その中央には波頭文りの中にメドゥーサの顔がある。外枠の正方形の四隅には、花瓶から出た唐草文が両側に広がっている。
中央部には果物と蔓草を髪に飾ったディオニュソスの頭部が表されるという。

メドゥーサだと思っていた。カンタロス坏は酒の神ディオニュソスの持物だったことに説明文を読んで、やっと気づいた。確かに頭髪は蛇ではない。
ディオニュソスの頭部を波頭文が囲んでいる。
今回の旅行では、この波頭文の起源も探したかった。それについても後日
馬を襲う2頭のグリフィン 舗床モザイク アゴラ南ストア下の家出土 クラシック期、前5-4世紀初
白、濃紺そして赤の丸石(ペブル)で、白い境界線の中で2頭のグリフィンが馬を襲っているという。
マケドニアのフィリッポス3世期(前359-317年)頃にペブル・モザイク(丸石モザイク)が多くつくられたことは知っているが、クラシック期にすでにこのような小さな色石で図を描いていたとは。
丸石はテッセラ(四角い切石)より、ずっと小さい。
ペブル・モザイクについてはこちら
フレスコ画 後1世紀後半-2世紀初頭 劇場と比定される建物より出土
フレスコ画というとポンペイの第1から第4様式が浮かぶ。ポンペイというのは、後79年にヴェスビオスの噴火で埋没したため、時代がはっきりしていのでその名が使われるだけで、古代ローマの他の都市でも同じような壁画の様式が流行する。
1世紀後半ともなると、第4様式になるが、それとは全く異なっている。
壁画 古代コリントスの北にあるローマ時代の墓出土 後2世紀前半
壁画の主題は、(ひょっとしたらナイル?)の川辺での日常生活が主題で、男達は網や小舟で漁をしたり、棒を投げて遊んだり、笛を吹いたりしている。埋葬に関するシンボルもあるという。
かなりラフな描き方だ。
墓はa:石の扉で閉じられていた。羨道の低い部分に壁画が描かれた。羨道は前室(D-G墓)と主室(A-C墓)に繋がっていたという。


         コリントス遺跡2 博物館1←    →コリントス遺跡4 博物館3

関連項目
ペブル・モザイクの最初はミケーネ時代?
2-7 パラティーノの丘の小さな博物館
ポンペイ16 第4様式は幻想様式
メドゥーサの首

※参考文献
博物館の説明板