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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年8月1日木曜日

ペロポネソス半島2 コリントス遺跡2 博物館1


コリントス博物館には各時代の土器・陶器類、舗床モザイク、彫像などが所狭しと置かれている。
とりわけ土器や陶器の展示が充実している。それはこの地が古くから交通の要衝であり、また土器の一大産地だったからでもあるのだろう。
『ギリシア美術紀行』は、コリントスの経済的繁栄は陸海の貿易の十字路というその地理的条件に負っていた。サロニコス湾に面してケンクレアエ港、コリントス湾に面してレカイオン港をもち、東西の流通物資や小船は、陸路で両港を結ぶ大理石の運搬路(デイオルコイ)の上をローラーや荷車によって運ばれ、その賃金がコリントスの労働者を潤したという。

中期ヘラディック期(中期青銅器時代、前2000-前1500年頃)の土器 古代コリントス北墓地出土
ケース左上の図面には北墓地と、それぞれの墓の土器の出土状況が示されている。
後期ヘラディック期(後期青銅器時代、ミケーネ時代、前1550-1050年)の土器
中でもこの形の高坏が特徴的。

ジグリエス(Zygouries)様式キュリクス(kylix) 前1550-1050年頃
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、前14世紀以降、比較的浅い杯に長い脚が付くのが最も一般的な高坏の形となった。ふつう脚部と台座には幾筋かのバンドが付され、口縁部と把手も塗られる。しかしそうした装飾をもたず、坏の中央に脚部中程に達する縦長の文様をもつだけの特徴的なものがあり、これらはまた、とくに長い脚と膨らみの少ない浅い杯をもつ。このタイプは最初にまとまって発見されたアルゴリス地方のジグリエスの住居にちなんで「ジグリエス・キュリクス」と呼ばれ、前13世紀前半を代表するミュケナイ土器の一つであるという。
口縁部から脚部にかけて何かを吊り下げたようなものが描かれており、しかも作品ごとに異なる。
幾何学様式土器 前8世紀
幾何学様式時代にメアンダー文が始まると思っていたのに、このコーナーにはその文様が見当たらない。 
背後にはローマ時代のガラス器の展示棚があったが、じっくり見る時間がなかった。
中期幾何学様式Ⅱ時代のアンフォラ 前800-750年頃 北墓地出土
頸部に大きく描かれているのがメアンダー文。
『ギリシア美術紀行』は、幾何学様式の文様として最も好まれたのがメアンダー文様である。これは小アジアにある蛇行する河マイアンドロスに由来する名称で、日本ならばさしづめ石狩川文様とでもなるのだろうが、平行斜線で埋められた平行線を線分として、その長短の線分を任意に組み合わせて、無限に連続させた独特の文様である。これが登場してくればもはや原(プロト)幾何学様式時代ではなく、これがなくなれば幾何学様式時代ではなくなるといっても過言ではないほど、あらゆる壺のあらゆる所に現れてくるものであるという。
東方化様式の土器 前620-580年頃
『ギリシア美術紀行』は、幾何学様式時代の末期にケルキュラやシュラクサなどの植民都市を西方世界に建設し(前734年頃)、僭主キュプロセス(前657-627年)およびその子ペリアンドロス(前627-585年)が支配したアルカイク時代にはその繁栄はゆるぎないものとなった。この時代は美術史では東方化様式の時代に当たり、コリントスはその東方貿易の結果もちらされたオリエントの動植物文様を主体とする陶器画の一典型を創造したのであるという。
「ギリシア都市の歩き方」は、地峡の地の利を活かした東西交易は、コリントスを経済的繁栄の頂点に導く。その時代を代表するものは、プロト・コリントス及びコリントス式の輸出用陶器や青銅鋳造品である。特に前者は、北は黒海から東はエジプト・メソポタミア、西はアフリカ・スペインに至るまで、地中海全域の都市遺跡では必ず発見されるという。
『ギリシア都市の歩き方』は、中でも特にプロト・コリントス式とそれに続くコリントス式の陶器は、淡黄色の釉薬を塗った器面に、黒褐色の顔料で動物文を装飾的に描いていく手法をとる。そこに赤・紫・白を加え、多彩色とし、このうえに、アクセントとして掻き落とし用の針を使って細部表現を刻線で刻んでいく。
さらに、器面を水平に輪切りにしたような横長の装飾空間とする構造装飾と定め、そこエキゾチックな動物を頭の高さを揃えて描き込む、イソケファロスの手法で表現していく装飾方法を特徴としていた。
しかも、器形をアリュバロス、アラバストロン、オエノコエという小振りの陶器形に絞ったために、船底に大量に積載することが可能となり、価格も低価格に留めることが、あわせて可能となったという。
確かに小振りな壺が多かった。
黒絵式陶器 前6世紀
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、中期コリントス陶器の時代(前595/590-570年)は、僭主ペリアンドロスがいまだ健在であり、地中海市場へコリントス陶器が盛んに輸出され、依然として他の地域の陶器を圧倒していた時代である。初期に流行していた動物フリーズも相変わらずコリントス陶器の商標的主題として種々の器形に表現されるが、神話物語の表現の急速な増大が目立っているという。
黒絵式になっても小型の壺が多い。
時間がないので慌てて写真だけ撮りまくって、説明板を写すのを忘れ、どの写真がどういう時代のものかさえわからないでいたものも、このような記述と共に見ていくと、神話の主題と東方の動物が描かれた土器が、繋がっているものだということがわかってくる。
そして、それに続く赤絵式陶器は少なかった。ひょっとして、時間がなくて撮影することができなかっただけかも知れないが。

赤絵式陶器 前5世紀
これも赤絵式?
イスラーム陶器も一つ一つの絵が面白いのだが、とうとう見ることはかなわなかった。
これらの写真からわかるように、窓から直接光が入り込んで、展示ケースに反射したり、作品そのものに射し込んだりして、非常に見難い博物館だった。

今回のギリシア旅行では、見たいもの、確かめたいものが山ほどあった。その一つが、土器(陶器)において、卍文や卍繋文が何時頃出現したのかということだった。
ところが、十分な時間がなかったこともあって、それらはコリントス博物館では確認できなかった。今回訪れた他の博物館で見た作品などから、「忘れへんうちに」の方でいつの日にかまとめたい。
しかし、卍繋文の原形ではないかと思われるメアンダー文のある幾何学様式の壺はたくさん見ることができた。これもか「忘れへんうちに」の方でまとめたい。 


    コリントス遺跡1 グラウケの泉と神殿址← →コリントス遺跡3 博物館2

関連項目
コリントス遺跡10 アクロコリントス2
コリントス遺跡9 アクロコリントス1
コリントス遺跡8 アポロン神殿
コリントス遺跡7 レカイオン界隈
コリントス遺跡6 中央アゴラ
コリントス遺跡5 E神殿(オクタビアヌスの神殿)
コリントス遺跡4 博物館3
ペロポネソス半島1 コリントス運河

※参考文献
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「ギリシア都市の歩き方」 勝又俊雄 2000年 角川書店