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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年11月15日金曜日

ブルサ Bursa イェシル・ジャーミイ Yeşil Cami


『トルコ・イスラム建築』は、13世紀後半からのアナドル・セルジューク朝は、スルタンが実権のない名目だけのものになっていたが、1308年に途絶え滅亡した。1336年には分裂した。それにより、イルハーン朝の支配から解放されたアナドルは、それぞれの地方を実質支配する君候たちの群雄割拠の時代になった。
建築では、アナドル中部から東の地方ではアナドル・セルジューク朝時代の伝統が引き継がれていたが、西アナドルでは様々な新しい方法が試みられた。西北地方の小さな君候だったオスマン朝が中心で、その支配領域の拡大とともに、新しい建築様式が発展しながら広まっていったという。
アナトリアの小さな君侯国の一つを建てたのがオスマン(在位1281-1324)だったので、その名にちなんだオスマン帝国と呼ばれるようになったが、ブルサをビザンティン帝国から奪って帝国の都としたのは第二代スルタン、オルハン(在位1324-60)である。
第四代バヤズィット一世がティムールに敗れた後に、その息子たちによって一時混乱し、その中から国を治めるようになったのがメフメット一世(在位1413-1421)で、ブルサのイェシルジャーミイを建立した。

ブルサ市街地図 Google Earth より(見学した順)
①オルハンガジ廟 ②オスマンガジ廟 ③イェシルジャーミイ ④イェシル廟 ⑤ウルジャーミイ ⑥コザハン ⑦オルハンガジジャーミイ ⑧オスマンガジ像


次に見学したのは③イェシルジャーミイ。
同書は、メフメット一世(在位1413-21)が建設したキュッリエ(複合施設)は、モスクすなわちザーヴィエ(デルヴィシュつまりイスラム神秘主義教団の修行者の宿泊所兼修道場)、メドレセ、テュルベ、イマーレット、ハマムからなり、特にモスクやテュルベの装飾で使われたトルコ石色のタイルが美しいので、イェシル(緑色の)キュッリエと呼ばれている。モスクは、建物が1414-19年に建設し終え、室内のタイルの装飾などは1424年に完成した。ユルドゥルム・キュッリエシよりは市の中心部に近いが、こちらも建設当時は市街地の外側であったという。地盤が良く、壁の造りも頑丈だったのか、1855年の地震にも耐えているという。

複合施設の各建物平面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より
建築主任:ハジュ・イワス・ビン・ハイェジド 
タイル装飾:タブリーズのアリ・ビン・イルヤス・アリ
木工細工:タブリーズのアリ・イブン・ハジュ・アフメッド

①モスク ②シャドゥルヴァン ③イマーレット ④テュルベ ⑤ハマム ⑥メドレセ
ブルサ イェシルジャーミイと複合施設 『トルコ・イスラム建築紀行』より


バスを降りて見えてきたのは、⑥イシェル・ジャーミイ付属のメドレセ

とその礼拝室。複合施設の図からも分かるように、モスクと同じ逆T字型と呼ばれる平面で、四角形からドーム分突き出しているようだ。
現在はトルコ・イスラーム美術館になっているという。


①モスクに近づいていくと、大きなドームが二つ見えた。右壁がミフラーブ(メッカの方向)側。


この礼拝室に続く出っ張りは、イスタンブールで見てきたミマールスィナンの造ったモスクには見られないもの。




側壁に沿って歩いていくと、イスタンブールで見慣れたよりもずんぐりしたレンガ積みのミナレットが見えてきた。



ファサードに回ったが、何かが違う。
同書は、プランはミフラーブを通るキブラ軸に左右対称で、約幅 34m、奥行き40mで、入口前の柱廊部分を除いて比べると、ユルドゥルム・ジャーミシより奥行きが少し長く、横幅はほとんど同じである。入口前の柱廊は設計されていて、工事も進んでいたらしく、柱廊部のミフラーブの予定であったニッチや、柱廊と結ぶアーチを乗せる迫り元の突起などが、正面のファサードに残っている。
メフメット一世の存命中の1419年に工事を止め、その後完成させるための工事は行われていない。どんな理由で設計通りに建設されなかったのかは不明であるという。
そう、小ドームが五つほどある柱廊がないのだった。
でも、二階には窓ではなく開口部があるのはイスタンブールのモスクでは見たことがない。
それについて同書は、建物の外に向かってブルサアーチで開かれたバルコニー状の部屋もある。二階への階段を上がらず進むと奥に部屋がある。この部屋は随行員用であろうか、デルヴィシュ用の可能性もあり、部屋の使用法は解明されていないという。

右側の壁面
小ドームが造られなかったので、返って細かい装飾に目を向けられた。ファサード側の壁面には、石彫の細かな装飾が施されている。漆喰装飾かと思うほどの細かさなのだった。


礼拝室入口
同書は、本来は柱廊の後ろに置かれ、やや目立たない位置にあるはずの入口は、建物の正面中央に露出している。白い大理石製でムカルナスや石彫り装飾が実に見事。タチカプのように、ファサードの面から外に飛び出ることもなく、両側の壁と同じ面内で収まっている。これも、入口前の柱廊が建設されなかった名残りだという。
礼拝室入口には木製の扉もないのだった。あっても同じように重い仕切り(カーテン)でふさいであるので、気づかないこともある。

左側の壁面


振り返ると②シャドルヴァン(清めの泉亭)
その奥には境内への正面入口がある。まだ柱廊で囲んだ中庭という構成がなかった。


モスク平面図
①ミフラーブ ②ミフラーブ前のドーム ③トルコ襞 ④中央ホールのドーム ⑤採光塔 ⑥スルタン用マフフィル ⑦ミナーレ ⑧入口 ⑨未建設のソン・ジェマアト・イェリ ⑩ブルサ・アーチ ⑪ザーヴィエ ⑫ムアッジン用マフフィル ⑬二階への階段
イェシルジャーミイ平面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より


入口上部
色彩といえば、大理石の切石のクリーム色だったりライトグレーだったりするくらいで、明るいモノトーン。数段のムカルナスの積み重なりよりも、スパンドレルの渦巻く蔓草が素晴らしい。
この真下で靴を脱いだ。

『トルコ・イスラム建築紀行』が逆T型モスクの最高傑作とする礼拝室へ入っていくと、まず小さい。そして④中央ホールと②ミフラーブ前の礼拝室が、ブルサ・アーチと呼ばれる扁平なアーチで隔てられている。
「逆T型モスク」について同書は、ブルサ型モスク、ザーヴィエリモスク、ともいう。オスマン朝初期にブルサを中心に盛んに建設された。正面側が横に広く、後方が狭いプランで、Tを逆にしたようなので、逆T型という。デルヴィシュ達の宿泊・活動場所のザーヴィエがある。モスクというより、デルヴィシュ達の活動場所としての機能が主という。
デルヴィッシュとはイスラム神秘主義教団の修行者のこと(同書より)。ブルサの市民向けに造られたものではなかったのだ。

④中央ホールにはシャドゥルヴァンがあるが、ここで身を清めるのは難しそう。
同書は、中央ホールを覆っているドームは直径12.4m、床面から天井までの高さ 24.8mで頂に小さな採光塔を載せていて、その真下には噴水装置のあるシャドゥルヴァンが配置されている。このホールは屋内式メドレセの中央ホールにあたり、中庭式モスクの中庭が変化したものだという。
奥には階段があって、礼拝室は高い場所に造られている。幾何学的な文様の透彫の結界があったので、上がることができないのかと心配。

同ホールのドーム
周りに衣服の襞のようなものが取り巻いているのは「トルコ襞」と呼ばれるもので、『トルコ・イスラム建築』は、正方形の部屋にドームをかける手法の一つ。トルコ三角形の手法を高度に発展させたもの。四方の壁の一定の高さの所から天井に向けて、三角形を複雑に組み合わせた多数の立体的なプリズムを繰り出して、天井に円に近い多角形を作り、そこにドームを載せる方法という。
こんなに色彩豊かに装飾されているとは思わなかった。


続いて②礼拝室のドーム
同書は、ミフラーブ前の礼拝室を覆っているドームは直径11.3m、高さ23.0mである。正方形平面の四方の壁から円形ドームへの移行には、どちらのドームもトルコ襞と呼ばれる手法を用いているが、ミフラーブ前の方がより複雑で装飾的であるという。
礼拝室のトルコ襞はより鋭角で、しかも複雑に入り組んでいる。

そしてタイルで埋め尽くされたミフラーブと、小さいがステンドグラス。
そして広くはない礼拝室の右隅にミンバル(説教壇)があった。
思い出した、イスタンブールのガズィアティクアリパシャジャーミイ(1496)もミンバルは右隅にあったことを。もっと大きなベヤズィットジャーミイ(1501-06)もミンバルは右隅にあった。しかし、次のセリム一世の名で息子のスレイマン大帝が建てたヤウズスルタンセリムジャーミイ(1522)では壁面の1/4くらいミフラーブに寄っている。

「上がれますよ」という現地ガイドのギュンドアン氏の声に、一番に駆け上がった←こら!

六角形のタイルが整然と張られ、その上にはおそらくコーランの言葉を描いた文様体が窓枠も考慮して描かれている。


これが創建タイルなのかは不明だが、どれも表面に皺のようなものがあって、あまり出来が良くない。そして、タイル・モザイクの系統なのか、白いところは目地ではなく、タイルだった。


①ミフラーブ
これは絵付けタイル。
同書は、室内のタイルの装飾などは1424年に完成したというので、オスマン帝国随一の陶器とタイルの生産地イズニクではまだこのような色彩豊かなタイルはつくられてはいなかっただろう。


礼拝室ドーム移行部
ステンドグラスはスレイマニエジャーミイや墓廟が造られた時期にもたらされたということだが、このステンドグラスが創建時期(遅くとも1424年)のものだったとすると、イスファハーンのチェヘル・ソトゥーン宮殿で見たイマームの扉という色ガラスを網目状のストゥッコに嵌め込んだステンドグラスのようなもの(1453)に先行している。

ミフラーブ脇のステンドグラス



ホールの入口側には凹みが三つもある。
同書は、左右の部屋と中央ホールの間は尖頭アーチが、ミフラーブ前の部屋と中央のホールとの間はブルサアーチが仕切っている。中央ホールの周りのどの部屋も、壁は高さ3.5mまでは緑色または紺色の六角形のタイルで覆われている。このタイルの色がイェシル・ジャーミの名の由来である。という。

同書は、二階の中央に、中央のホールに向かってブルサアーチで開かれたイーワーン状の部屋がある。全ての面が精緻なデザインのタイルで覆われた豪華な部屋で、スルタン専用のマフフィルだ。その両側の部屋はスルタンの家族などの専用室であるという。
家族用の部屋は小さな窓に鉄格子が入っている。


左下
同書は、イーワーン状に開かれた高い床の小部屋がある。ムアッズィン(エザーンを呼びかける者)用のマフフィルといわれ、床から天井まで豊かなタイル装飾で覆われているという。
ムアッズィンという役目の人が何人いたのかと思うほど広くて、しかも二つもある。

右下にもムアッズィン用マッフィル(『トルコ・イスラム建築』ではマフフィルとしているが、現地ガイドのギュンドアン氏に「マッフィル」と訂正された)
ここのタイルについて詳しくは後日忘れへんうちににて。


同書は、左右の部屋と中央ホールの間は尖頭アーチが、ミフラーブ前の部屋と中央のホールとの間はブルサアーチが仕切っている。中央ホールの周りのどの部屋も、壁は高さ3.5mまでは緑色または紺色の六角形のタイルで覆われている。このタイルの色がイェシル・ジャーミの名の由来であるという。
ムアッズィン用マッフィルの壁面下半分には緑色の六角形タイルが認められた。

右脇室の壁面にも、窓の高さまで緑色六角形タイルが貼られている。

しかも、タイルには金箔らしきものが。詳しくは後日忘れへんうちににて。



ホール左脇室の天井
『トルコ・イスラム建築』は、中央ホールの両側とミフラーブ前の礼拝室の両側の四つの部屋は、菊花のように溝をつけたドーム天井で覆われているという。
この部屋の三方の壁にも緑色六角形タイルの装飾がある。

その壁からの移行部では、 四隅からムカルナスを立ち上げて八角形を作り、その上に八角形のドラムを載せ、そのドラムの上にドームを据えている
という。
ここの傘状ドーム、トルコ襞、ムカルナスも修復されたように鮮やかな色だ。


おそらく立ち入り禁止になっていただろうが、二階に上がって、デルヴィッシュ用のマッフィルから外を眺めてみたかった。

最後にイェシルトゥルベ側から見たイェシルジャーミイ




参考文献
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社