アクタルラ石棺 ローマ帝国時代、後2-3世紀
説明パネルは、三面はレリーフで装飾され、一面は無地のまま。棺身の狭い側面には、5行のギリシャ語碑文が刻まれている。蓋の先端部分には、ホタテ貝形の浮彫の中に女性の頭部、もう一方には花輪の中に男性の頭部が浮彫されているという。
棺身の広い面にはイルカに乗った二人の童子が花綱を担ぎ、その間にメドゥーサの顔が彫られている。
ルーム・セルジューク朝第4代スルタンマスウード一世(在位1116-56)の墓廟
ルーム・セルジューク朝の2番目の首都コンヤ(1077-1211)時代だったのに、マスウード一世の墓廟が遠く離れたアマスヤにつくられたのには、どんな理由があったのだろうか。
説明パネルは、二階建ての長方形の平面構造として建てられた。墓の一階は、訪問者が訪れる間で、遺体を安置するため。墓の北側に位置する建物の入口面は、頂部と側面から突き出すように建てられているため、より際立っている。
墓は、傾斜面は砕石とレンガで建てられており、墓を覆うために使用されることもあったという。
遊牧民なのにこんな石造りの直方体のような建物を造るとは。
説明パネルの修復前の墓廟とヴォールト天井
重厚な入口は平天井になっていて、幾何学文の浮彫が施され、ムカルナスはないが、いわゆる鍾乳石飾りの垂飾だけがある。ムハンマドが修行した洞窟を表しているのだったかな?ええ加減な記憶です。鍵が掛かっていて中に入れず残念。
両脇にムカルナスっぽいものが並んでいる。
ファサード隅の石彫装飾
ファサードの立面図と平面図
この頃の墓廟は円錐ドームを戴く円形平面の外観ではなかったと思い、東トルコの古い記事を見直すと、マスウード一世の墓廟よりも後にアルメニア建築の影響を受けて建造されたものだった。それについてはこちら
ヴォールト天井は、中央東西に設置されたアーチによって支えられている。墓の一階へは西側の開口部から入るという。
二階建てで、上階から入ると、イスラームの墓廟らしく、柩が置かれ、遺体は下階に安置されているのだろう。
ファサード隅の石彫装飾
片隅には大きな甕がうつ伏せに置かれている。
続いて街歩き
❶考古学博物館 Amasya Arkeoloji Müzesi ❷バヤズィト二世モスクと複合施設 Sultan II. Bâyezid Camii Külliyesi ❸ポントゥス王国の磨崖墓群 Pontus Kralları Kaya Mezarları ❹アマスヤの城壁 Amasya Harşena Kalesi ❺河岸の伝統家屋群 Amasya Yalıboyu Evleri ❻アルチャク橋 Amasya Alçak Köprü ❼サルチュハネモスク Saraçhane Cami ❽時計塔 Saat Kulesi ❾ムスタファベイハマム Mustafa Bey Hamamı ➓メフメトパシャジャミイ Mehmet Paşa Cami ⓫レストラン Amesya Sofrası ⓬滝? ⓭ブユクアーメドレセ Büyük Ağa Medresesi 街を貫くのは黒海に流れ込むイェシルルマク川 Yeşilımak
TDVイスラム百科事典のベヤズィト2世モスクと社会複合施設によると、建設はバヤズィトが王位に就いた直後の1481年に始まり、バヤズィト1世が王位継承への感謝の印として、モスクと複合施設の建設をアフメド王子に託したと伝えている。複合施設はモスク、炊き出し場、マドラサ、小学校から構成されると記載されている。1486年に完成しているという。
バヤズィト二世は征服者メフメト二世の子で、エディルネのモスク複合施設(1484-88年)と、イスタンブールのモスク複合施設(1500-06年)を建てているので、バヤズィト二世の名を冠した最初のモスク複合施設。
ドームのドラムは八角形から架構されていて、四隅には重量塔が付属している。突き出たミフラーブの上部にも八角形のドラムに小さなドームがのっている。ミナレットは2基。
道路を渡りモスク複合施設の境内へ。ミフラーブのあるところだけが突き出ていて、タブハネ(修行僧が宿泊できる施設)は礼拝室前半に付属している。エディルネに建立されたモスクや、イスタンブールに建造されたモスクが、キブラ壁の外側は平らでタブハネが礼拝室の2/3くらいの位置に隣接するのとは異なっている。
基壇はトルコ襞
シャドゥルヴァン(清めの泉亭)は木の柱で支えている。尖り帽子がおしゃれ
礼拝室入口は珍しく幕が上がっていた。
もう一つのミナレット。左右で装飾が異なる。
二つのミナレットを比べてみると、
ソンジェマアトイェリ(遅れてきた人が礼拝する場所)
中には入らなかったが、上の写真を拡大してみると、ミフラーブは窓とおなじラインにある。外側にあったのは何のための出っ張りだろう。壁が薄いのでミフラーブの深みを付け足したのだろうか。
この礼拝室入口にさきほど考古学博物館で見た2枚の木の扉があったのだろうか。それとも礼拝室の窓かな。
詳しくは後日忘れへんうちににて
L字型のイマレット(メドレセの学生や貧しい人達に食事を提供するための慈善施設)と柱廊。
モスク複合施設の境内を通ってイェシルルマク川沿いに出た。向こう岸が左岸、こちら側が右岸
川向こうには❺河岸の伝統家屋群、岩山の上部には❹アマスヤの城壁 、そして中腹には❸ポントゥス王国の磨崖墓群 Pontusという風光明媚な景色が広がっている。
伝統家屋にも古びたままのものもあるが、
説明パネルは、シャドゲルディ公国時代の1372年、アマスィヤの首長シャドゲルディ・パシャによって建立された。当初は正方形の平面で単一のドームを持つ建物だったが、後に新たに増築され、平面が長方形に変更されため、ミナレットは中央に残った。モスクのドームの円柱部には簡素な鳥の巣箱が設置されているという。
1372年といえば、オスマン帝国第3代スルタンムラト一世(在位1362-89)期の時代だったが、地方では小さな公国が残っていたようだ。
右岸には❾ムスタファベイハマム
説明パネルは、1436年にムスタファ・ベイによって建てられた。正方形平面でドーム型の温浴室や冷浴室が、周囲の景観を囲むように設けられているという。
この公衆浴場も古いものだった。
アマスヤ文化局のMehmet Paşa Camiは、バヤズィト二世の息子アフメト皇子の家庭教師であったメフメット・パシャによって1486年に建てられた。モスクは逆T字型平面で、正方形の主礼拝室に、八角形のドラムからドームを架構した高い天井を備えている。モスクの北側には、7本の八角柱で六つに分かれたナルテックス(拝廊)がある。それぞれの上にはドーム屋根があり、柱は赤と白の大理石のアーチでつながっている。扉は木彫りの素晴らしいできばえで、アマスィヤ博物館に展示されている。モスクの大理石の説教壇は、優美な枝と葉のモチーフで装飾されており、トルコの大理石職人技を示す珍しい例という。
木の扉はキュンデカリではなく浮彫?どの扉だろう?
前菜(メゼ)幾皿か出てくるものをそれぞれの更に取り分ける。トルコでの和の食の共はアイラン。
この時は見えなかったが、滝の少し下流に、カプアーア(ブユクアーア)メドレセ Kapı Ağa (Büyük Ağa) Medresesi がある。
カプアーア(ブユクアーア)・メドレセ俯瞰図 Google Earth より
『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』は、リュステムパシャマドラサ(1550年)は、スィナンはアマスィヤのカプアー・メドレセ(1489年)の八角形プランを正方形の建物に組み込むことで再解釈しているという。
Google Earth はどういても歪みが出てしまうが、平面八角形らしきことは見て取れる。そして、リュステムパシャメドレセと同様に入口の向こう正面に大ドームの講堂を配置していないので、ミマールスィナンもそれに習ったのかな。講堂の配置はリュステムパシャメドレセの方が安定感がある。メッカの方向と関係するのかな。
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参考サイト
参考にしたもの
博物館の説明パネル