お知らせ

やっとアナトリアの遺跡巡りを開始しました。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2025年10月31日金曜日

アラジャホユック 王宮の門と王墓


やっとアラジャホユックとボアズキョイ見学の日。
地図 Google Earth より
❶チョルム ❷アラジャホユック ❸ボアズキョイ ❹アンカラ ❺カマンカレホユック(後日)

チョルムを出発してD795号線を南下していくとダムが見えてきたが、現代造られたものだった。。


やがてD795号線から外れて、ぐるりと右カーブしたら池のようなものが見えてきた。これがヒッタイト時代に造られたダムだった。

❶ヒッタイト時代に築かれたダム Alacahöyük Hitit Barajı ❷アラジャホユック遺跡 Alacahöyük ❸ギョルプナル・ヒティト・バラジュ Gölpınar Hitit Barajı(見学はしなかった) Google Earth より
見学はしなかったが、ギョルプナルのヒッタイト時代に造られたダムについて『古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ』(以下『古代都市1』)は、アラジャフユク遺跡の南東1.5㎞、カラマフムト村への途中に、ギョプナル(湖泉)と呼ばれるダム(堰)がある。これが実はヒッタイト時代までさかのる人工の施設だと判明したのは1935年のとだった。湖水部分は 110×100mのほぼ正方形、中央部の深さは2.5mで、25000 ㎥の水を貯えることができた。
2本の水路とプ-ルが見つかり、更に彫像の台石が三つと象形文字が記された石碑の一部、そして美しい赤い石の周りをみごとな金細工で飾った、小さな24金製サンディスクが出土している。ヒッタイト帝国末期のトゥドハリヤ四世(前1250-1220年)が女神へパトに奉献したというこの貯水施設は小アジア最大の、知られる限りでは最古のダムである。
像の台石や象形文字の石碑、豪華な宝飾品などの出土品からもこのダムが太陽女神へパト信仰と関係していたものと推測される。数千年前のヒッタイト人が、現代でも通用する水管理システムを実行していたという点で、ギョルプナルヒッタイトダムは貴重な歴史遺産と言えよう。このダムの水は今日も周辺の農地を潤しているという。


到着するとチケット売り場でノラ犬くんたちがお出迎え。イスタンブールのノラよりも小さい。


アラジャホユック遺跡 Google Earth より
ヒッタイト時代のスフィンクス門 ❷初期青銅器時代の王墓群 ❸小神殿 ❹洞道 ❺休憩所 ❻金属工房 ❼貯蔵庫 ❽神殿 ❾ライトレール車両 ➓博物館


料金所から博物館への通路途中から❶スフィンクス門が見えた。手前の腰壁には浮彫があるらしい。
『古代都市1は、アラジャフユクに残るヒッタイト時代の層(前1660-1200年)から当時の繁栄ぶりが偲ばれる。石の土台に日干しレンガを積んだ城壁が町全体を囲んでいた。 正門は南側にあり、巨大な一枚岩に彫ったスフィンクス像が門を守っていた。
両脇の腰壁にはヒッタイト帝国時代、前14世紀の浮彫で飾られた安山岩製のオルトスタットが残されているという。

まだノラ君たちはついてくる。


スフィンクス門と浮彫(ただし、スフィンクスや他のオルトスタットはレプリカ)


スフィンクス(後日見学したアンカラのアナトリア文明博物館では写りがよくなかった)


ノラ君たちはおとなしいがしばしば邪魔

説明パネルは、右壁にも宗教儀式が描かれている。役人たちは、フリーズの先端にある玉座に座る女神に向かって祈りの身振りをしている。この女神は、嵐の神の妻であり、アリンナ市の太陽神と解釈されているという。

左腰壁外側より
不明、楽士たち、軽業師、長衣を着て祭具を担ぎ神殿に向かう人たち

続き
祭具を担ぐ人々の前に供犠の動物が連れられている。間に人がいて写せなかったが浮彫欠損、王と女王が祭壇の前で祈りの身振りをしている。右端は台座に立つ牡牛が嵐の神を象徴しているという。

この壇はヒッタイト時代の貼付文装飾付き壺(チョルム博物館蔵 前1650年頃)にも表されている。同様の壇は、アナトリア文明博物館蔵イナンドゥックテペ出土貼付文装飾付き壺の(前16世紀)頸部に、また牡牛は胴部に描かれている。


このオルトスタットについてはアンカラのアナトリア文明博物館蔵の写真も合わせて、後日忘れへんうちににて

説明パネルは、内面には、象徴的な杖を持つ4人の人物が儀式の場面として描かれているという。

右側のオルトスタットにも部分的に浮彫が残っている。


兵士たちの行進?

右のスフィンクスの側面には双頭の鷲が、動物をそれぞれの足で鷲づかみにしている。そしてその上に長衣とその下から出ている先が尖った靴。ということは神が双頭の鷲の頭上に乗っていたのだ。それに気付かず側面全体を写していなかった。
双頭の鷲はヒッタイトにおいて支配と権力の象徴だそう。

後に博物館でこんなレプリカがあった。片方の足で掴んでいたのはウサギだった。

『古代都市1』は、その上に残る、足と長い衣装の裾の部分の浮彫は女神の像だったと考えられているという。


門を入ると王宮の石積みの遺構が目に入ったが、

左折して
その後王宮跡の縁を歩いて、❷初期青銅器時代の王墓群へ
説明パネルは、アラジャホユックの初期青銅器時代の王墓は、この時代における最も重要な発見。丘の南東部に位置する13基の城壁内墓のうち6基は、元の姿に復元されているという。

王墓には覆いが掛けられている。


『鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘』(以下『鉄を生みだした帝国』)は、墓は竪穴の形式をとっており、長方形の形をしていた。周囲は自然石で囲まれていた。13の墓の形式は、ほぼ同じであるが、上層部に向かうに従って、つまり時代が下るにつれて、しだいに簡素化されていったという。
本来は石積みの部分は縦穴を掘って、その中の壁になっていたのだ。

説明パネルは、これらの石壁で囲まれた長方形の墓は、木の板で屋根が葺かれ、埋葬後に粘土質の土で塗り固められた。後に、葬儀の一環として、犠牲に捧げられた動物の頭蓋骨や長骨が木の屋根の上に並べられたという。
その6基に共通するのは、牡牛の頭蓋骨などが置かれている奥の右隅に石で四角く囲われた所に王の遺体が右を下にして、足を曲げて安置されている。こんな隅に安置するなら、これだけの広さは必要ないのでは

王墓H?
説明パネルは、墓の中では、死者の頭部は西向き、顔は南向きに据えられていた。副葬品には、金、銀、宝石で作られた装身具に加え、武器、金属、土器などが副葬されていた。サンディスクは、副葬品として墓に安置された独特の工芸品であるという。
王墓については後日忘れへんうちににて

この王の遺体には牡牛の頭蓋骨が置かれている。黒っぽい土で蟻地獄のようなものが点々とある。副葬品としてはサンディスク、鹿のスタンダードなど。

後方にも牡牛の骨や丸い壺



二つ目の王墓

青銅製のスタンダードやサンディスクの他に、二振りの剣のようなものや何かの道具または部品が二つ。

青銅の剣?

遺体の傍に金のカップ、下の二つが様と不明のもの



三つ目の王墓

土器や青銅製の壺など。遺体の頭部に金冠らしきものも。


反対側から見ると、スタンダードやサンディスクが幾つか。


スタンダードとサンディスク
『鉄を生みだした帝国』は、周囲に付属的にリングがついているものがある。スタンダードをふると、そのリングがカチカチなるような構造である。すべてのスタンダードが王墓内から出土していることから推測して、私はこれは葬礼に使用されたものではないか、と考えている。
発掘されたスタンダードのうち、上層部の王墓から出土したものは、墓の形式と同様、形のうえでも小さくなり、簡素化されており、周辺に付属していたリングも姿を消しているという。


四つ目の王墓
右端に赤い土器が二つ写っているが、大きい方には共蓋がある。

青銅製の壺やスタンダードなどが多く副葬されている。
中でも、左端のスタンダードの群を抜く複雑さ、右のパイプのようなどんな用途があるのか不明、サンディスクの破片など。


五つ目の王墓

スタンダードは一つ見えるだけだが、右端に青銅製の剣が3本ある。


用途不明の青銅製道具と見かけないタイプのスタンダード

青銅製の剣?鉄さびのようなものが出ているが、


『鉄を生みだした帝国』は、王墓の遺物には、黄金の杯や王冠、ベルト、嘴型の水差しなどが出土したのであるが、それらに混じって、一振の鉄製の短剣が出土したということであった。この鉄剣は、13王墓のうち、K墓から出土している。
鉄製の短剣。オリエント世界の鉄器文化は前1200年頃、つまりヒッタイト帝国の崩壊した時、その幕開けを迎えたはずである。それがどうしたというのであろうか。前2500年から前2200年の文化層に鉄剣が発見されたとは。中央アナトリアには、前2500年頃、すでに鉄器時代にはいっていたとでもいうのであろうかという。
ということで、二つ目と五つ目の王墓から出土した金属棒は鉄ではないのは確かである。


           アマスヤの岩窟墓

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参考文献
鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘」 大村幸弘 1981年 NHK BOOKS
「古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ」2013年 URANUS

参考にしたもの
現地説明パネル