お知らせ

やっとアナトリアの遺跡巡りを開始しました。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2025年10月24日金曜日

アマスヤの岩窟墓


昼食後は岩窟墓へ。二日目の午後になってやっと遺跡を見学できる。
❶考古学博物館 Amasya Arkeoloji Müzesi ❷バヤズィト二世モスクと複合施設 Sultan II. Bâyezid Camii Külliyesi ❸ポントゥス王国の磨崖墓群 Pontus Kralları Kaya Mezarları アマスヤの城壁 Amasya Harşena Kalesi ❺河岸の伝統家屋群 Amasya Yalıboyu Evleri アルチャク橋 Amasya Alçak Köprü ❼サラチュハネモスク Saraçhane Cami ❽時計塔 Saat Kulesi ❾ムスタファベイハマム Mustafa Bey Hamamı ➓メフメトパシャジャミイ Mehmet Paşa Cami 


博物館にあった古い地図「
AMASYA HARŞENA KALESİ VE KIZLAR SARAYI アマスヤ・ハルシェナ城とキズラール宮殿」を見ると、今では河岸に❺伝統家屋群が並んで趣ある景色となっているが、昔はイェシルルマク川に沿って城壁が続いていて、その中にハルシェナ城やクズラル宮殿があったそうな。


❻アルチャク橋を渡る。

岸辺近くを通る鉄道の線路をくぐる時、左手の岸壁に二つの岩窟墓が見え、

右上には城壁と三つの岩窟墓が見えた。
アナトリアで岩窟墓と言えば、東地中海南西部にあるミュラやフェティエにあるリュキア時代のもの(前4世紀)だと思っていたが、遠く離れたアマスヤにも岩窟墓があるとは。


王たちの岩窟墓とクズラル宮殿跡のパネル
ミトリダテス一世の墓 ⅠMİTRHIDAT MEZARI ⓑアリオバルザンの墓 ARIOBARZAN MEZARI ⓒミトリダテス二世の墓 ⓓクズラル宮殿 KIZLAR SARAYI ⓔミトリダテス三世の墓  ⓕファルナケス一世の墓 ⅠPHARNAKES MEZARI  


線路をくぐると階段が待っていた。前方には修復された城壁。

向こう岸の市街を眺める。真ん中の灰白色の四つのドームは屋根付きの商店街 Bedesten Kapalı Çarşı 、奥の単一ドームとミナレットは名称不明のモスク。

ここからは木立に隠れてバヤズィト二世モスク複合施設の全体像が見えない。


でもドームの様子は分かる。


最初にあるのがⓐミトリダテス一世王墓 在位前301-256年
説明パネルは、墓室は、王とその家族の埋葬と副葬品の設置のために設計された、非常に大きなU字型の埋葬床がある。
クティステスの息子ミトリダテス一世は、ポントス帝国の第2代の王。その墓は回廊に囲まれている。一年の特定の日に巡礼が行われ、故王を神格化したと考えられている。
ヴォールト天井に漆喰で描かれたフレスコ画は、ビザンチン時代にこの墓が「礼拝堂」として用いられていたことを示しているという。

こんな窓のような開口部が納骨室の入口。開口部の両側には四角い穴が一つずつ。
どの墓もかなり前に暴かれて何も残っていないそう。回廊は分からなかった。

戻る時に見えたファサード

階段を上って
ⓑアリオバルザンの墓 在位前266-256年
この墓も小さな開口部だけ。同じ高さのところに四角い穴が四つ。木材を穴に差し込んで庇を設けていたのだろうか。


ⓒミトリダテス二世の墓 在位前256-222年頃
説明パネルは、ポントゥス王国の3代目の王の墓。アルロボルザンの墓と類似した特徴で、墓室の床には、大理石または木製の石棺を納めるための凹みがある。ヴォールト天井に残るフレスコ画の痕跡は、ビザンチン時代に礼拝堂に改築されたことを示しており、また、火災の痕跡は、後世に避難所として使用されたことを示しているという。
開口部の下には壇のような出っ張りがあり、墓の前に凹凸のある壇が設けられている。

左の狭い通路が回廊ということだろうか。四角い穴は幾つか並んでいる。



この先は立ち入り禁止


下界を見下ろすと建物の遺構と四角い穴が幾つか。これが古い地図にあったクズラル宮殿跡なのだった。
Türkiye Kültür Portalıガールズパレス - アマスィヤは、1146年、セルジューク朝のスルタン、マスウード一世は、この地域にモスク、マドラサ、浴場、宮殿を建立するよう命じた。浴場は今も残っている。
オスマン帝国時代には、15世紀にバヤズィト二世のカプアガーであったフィルズ・アーによってクズラル・サラユ(女子宮殿)が建てられ、16世紀にはイスフェンディヤル・チェレビーが居住した宮殿となった。クズラル・サラユは150年以上にわたり、オスマン帝国の王子、妻、そして知事によって使用されたという。
英語ガールはトルコ語ではクズ kız。
マスウード一世の墓廟はアマスヤ考古学博物館の隣にあった。それについてはこちら
イラスト地図にもあったように、岸壁から岩山にかけては城壁で囲まれているのは、ルーム・セルジューク朝期、引き続いてオスマン帝国時代にも宮殿がここにあったから。宮殿といっても規模としてはささやか。

城壁に添った階段を下りて、

途中にあった城壁の穴から向こう岸の街と山並み

ここが東の墓廟群と西の墓廟群との分岐点。


残りの王墓への道へ向かっていると、先ほど岩窟墓のところから見下ろしたⓓクズラル宮殿の遺構があった。唯一残っているオスマン帝国時代のハマムだったという。


前方にはワクワク感が増すトンネル😃



階段を上り詰めるとⓔミトリダテス三世の墓 在位前200-195年
説明パネルは、他の3人の王の岩窟墓の西に位置している。墓の周囲には、長さ約20mのU字型の回廊がある。この墓でも、他の墓と同様に、死者への崇拝が行われていたと考えられている。墓室の床には、大理石の石棺を置くための深い10mの穴がある。墓室の内壁の白塗りと、そこに残る煙の跡は、この墓が再び使用されていたことを示しているという。
一応説明パネルにあった通りにGoogle翻訳で訳したが、こんな岩の中に10mもの穴を掘れたのだろうか。
この墓は周囲までレンズに収まったので、墓室と岩の間に隙間を穿って、回廊を造ったらしいことが理解できた。

墓の前が広かったのでほぼ正面から。先ほどの三つの岩窟墓にあった複数の四角い穴がない。

せっかくなので中を覗いてみたら、確かにヴォールト天井になっていたが、床を写すのを忘れていた


再びバヤズィト二世モスク複合施設を眺めると、メドレセが少しだけ見えた。

そして最後の王墓へ。



ⓕファルナケス一世の墓 前183年
説明パネルは、この墓は前183年にファルナケス一世のために造られた。しかし、ローマ帝国によるアマスィヤ征服のため、埋葬は不可能だった。この墓は、ポントゥス王国時代に建造された王の岩窟墓としては最大かつ最後のものという。

かなり縦長。一面に穴が穿たれているのは、表面に何かを塗ったり貼ったりするためのものだが、ビザンティン時代に礼拝室になっていた頃だろうか。


回廊まで掘り進んだのに
ファルナケス一世はここには埋葬されなかったとは。


下に目を向けると、ミナレットが1本のハトゥニエジャミイ Hatuniye Camii と煙突が幾つかあるユルドゥズハマム Yıldız Hamamı。
ハトゥニエジャミイについてTürkiye Kültür Portalıハトゥニエジャミイは、1510年にスルタン・バヤジト二世の妻でアフメト王子の母であるビュルビュル・ハトゥンによって建立された。当初はモスク、浴場、小学校からなる複合施設だったという。
北側に小ドームが五つ並ぶ柱廊(礼拝時刻に遅れて来た人が礼拝するソンジェマアトイェリ)、続いて二つの大ドームという、古い様式の逆T字型モスクなのだった。
スレイマン大帝がヒュッレムをトプカプ宮殿に住まわせるまでは、皇子たちは母后と共に地方の宮殿に住まわされたので、その宮殿や民衆のためのモスク複合施設が建てられたのだろう。

東側の三つの岩窟墓。更に左の崖には人工的に開けられた長方形の穴が。

回廊だけなら側壁と裏側を掘るだけで良かったのでは? 上部まで掘る必要が? 大きな石棺として造られたとか。右端のミトリダテス一世墓などはギリシア神殿のようにペディメント(三角破風)に見える。創建当時は前面に円柱などもあったのかも。



その後チョルムに戻り、夕食に出かけた。
チョルムにも時計塔があって、ここからが繁華街のようだった。

雰囲気のある建物が目に入ったり、


角を曲がれば今風の建物?があって郊外に行くのかと勘違いしたが、

とある通りの
古民家レストラン、カティプレル・コナーウ Katipler Konağı に着いた。


前菜は野菜料理これで4人分

左の液体はローズヒップシャーベット Kuşburnu  Şerbeti 、右はこの地方のパン
「オスマン帝国外伝」では、スレイマン大帝の妃ヒュッレムが、たまにシャーベットをふるまっていたが、金属の器だったので、こんな液体だとは知らなかった。

レンズ豆のスープと薄いパン、ギョズレメ(トルコ版クレープのような)
スープの向こうにはチーズや野菜を巻いたものまで。

メインは干しアンズやナッツと牛肉を煮たものと、そのスープで炊いたピラウ
肉は柔らかく、美味しくてもとても食べきれない量。


夕食後は日が暮れ始めていた。古民家レストランを出て、少し散策していたら、現地ガイドのオキアイさんが、「チョルムにはもう一つ世界遺産があります。世界一小さな商店街で、現在でも営業しています」と案内してくれた。もうお店は閉まっていたけれど、その名も「世界で最も狭いアラスタDünyanın En Dar Arastası」 。

長身のオキアイさんには小さすぎて入れないほどのお店だとか。

次の通りに出ると公園があって、先ほどの時計塔が見えてきた。
街灯がトルコの国旗の三日月と星になっていて和みます。三日月はイスラーム、星は自分たちテュルク民族が遊牧民だったことを忘れないようにという意味があるのだそう。

月も出てました。


アマスヤにマスウード一世の墓廟やバヤズィト二世モスク複合施設


参考サイト

参考にしたもの
現地説明パネル