マルマライをスィルケジで下車してトラムT1線に乗り換えた。
トプカプと呼ばれる門はビザンティン帝国時代は聖ロマノス門と呼ばれていたが、オスマン軍が大砲でテオドシウスの城壁の数ある門の中でも、この門を集中的に大砲で攻撃したために、現在でも城壁の保存状態は良くない。それもあってのことだろうと思うのだが、トラムはT1線を始め、自動車道などが整備されている。
トプカプ門近辺 Google Earth より
❶トラムT1線 ❷パノラマ1453 Panorama 1453 Tarih Müzesi(コンスタンティノープル陥落の出来事をドームに再現上映している。陥落時にはトルコの人たちの歓声が上がったりしてのでお薦めとか) ❸パザルテッケ駅 Pazartekke ❹トプカプ駅 Topkapı ❺トプカプ通り Topkapı Cd. ❻テオドシウスの城壁 ❼カラアフメトパシャ廟 ❽ガズィアフメトパシャジャーミイ
トラムをうっかり降り損ねて❹トプカプ駅まで乗ってしまい、❸パザルテッケ駅まで戻った。電停の名はパザルテッケなのに、通りの名はトプカプ Topkapı Cd. とは。
❺トプカプ通りは片側1車線で歩道もあったが、私が行った時はガタガタで歩きにくかった。
ようやくロータリーまで来て左手に見えたのはテオドシウスの城壁
Google Earth より
❼カラアフメトパシャ廟 ❽カラアフメトパシャジャーミイ
ロータリーの北側にカラアフメトパシャの墓廟は平面正方形?『トルコ・イスラム建築』は、1553年にスレイマンの長子ムスタファの処刑事件に関連して、更迭されたリュステムパシャの後任として大宰相になったカラアフメトパシャが、イスタンブル市壁のトプカプ門近くに建設したキュッリエのモスクである。
1553年に大宰相になったカラアフメトパシャはキュッリエの完成を見ずに2年後に処刑され、大宰相に返り咲いたリュステムパシャの援助によってキュッリエは1559年に完成したという。
長々とあった「オスマン帝国外伝」(4シーズン、約400回)では、スレイマン大帝の多くの姉妹が出現しては去っていったが、カラアフメトパシャの妻もその内の一人だったように思うが、カラアフメトパシャの記憶は不確か。
入ってすぐに上空からの写真パネルがあった。かなり以前の街のよう。
平面図 『Architect Sinan His Life, Works and Patrons』(以下『Architect Sinan』より)
①中庭への入口 ②メドレセの講堂 ③中庭の三方を囲むメドレセ ④中庭の回廊 ⑤中庭 ⑥シャドルヴァン(清めの泉亭) ⑦礼拝室入口 ⑧ソンジェマアトイェリ(礼拝の時刻に遅れて来た人が礼拝する場所) ⑨主ドーム ⑩ミフラーブ ⑪ミンバル(説教壇) ⑫主ドームを支える円柱 ⑬半ドームと下部のスキンチ ⑭マッフィル
残念なことにタイルは全く気が付かなかった。
デジカメで撮影していたらもっと拡大できたが、この時はスマホだったのでこれが精一杯。かろうじて黒っぽい六点星形のタイルが一つだけ認められる。
入口を探していると、モスクの礼拝室と柱廊の境目にガラス張りの玄関のようなものがあったので、入ってみたがそれより先に入ることはできなかった。説明パネルは、ミマールスィナンによって建てられたこのモスクは、1696年に改築された。ドーム部分は1894年の地震で被害を受け再建されたという。
どうやら入口を間違えていたことに気付き、柱廊を辿っていくと中庭への入口が分かった。正面には⑥シャドルヴァン。
なんと入口の扉が閉まっている。
天井のドームは、ブルサで見かけたオスマン朝初期のドームへの移行に使われたトルコ襞ではないだろうか。イスタンブールでは廃ってしまったという。でもペンデンティブで架構した上に、装飾として付け加えられただけのよう。ミマールスィナンの頃には廃れていたはずのトルコ襞なのに、装飾として造ってみたかったのかも。
扉が閉じているだけでなく鍵も掛かっていた(写真左)。別の扉(写真右)も閉まっていて、これでは入れへんがな。木製の扉はどちらもキュンデカリ技法のようで、その文様は同じではなかった。左の入口の扉の方が古いのだろうか。
何故閉まっているのかを通る人に聞いてみたが分からないとのこと。そうこうしているうちにメドレセのガラスのドアからおっちゃんたちが数人出てきた。講義でも聴いていたのだろうか。
その人たちにモスクが閉まっていることを言うと、一人が「午後から開きますよ」と教えてくれた。それではカバタシュのモラチェレビジャーミイと同じやん。そのことをガイドのギュンドアン氏に言うと不審そうだった。前の現地ガイドのアイシェさんは、モスクを管理しているのは公務員ですと言っていた。
ということで、トラムT1線でスルタンアフメト駅まで戻り、トプカプ宮殿の特定のところをもう一度見学した。それについてはすでに忘れへんうちににまとめています。
そして、午後出直した。ムカルナス装飾のない礼拝室入口を入って⑨主ドームを見上げる。
ドーム下は大きなガラス窓がずらりと並ぶが、これがミマールスィナンが加工したドームだったかは分からない。
平面図 『Architect Sinan』より
ⓐ礼拝室入口 ⓑ主ドーム ⓒミフラーブ ⓓミンバル ⓔ支柱(6本) ⓕ半ドーム(四つ) ⓖ尖頭アーチ ⓗ傘のようなスキンチ ⓘバットレス(左右2ヶ所) ⓙ支柱とバットレスをつなぐアーチ(左右二つ) ⓚ二階の女性用マッフィル(二階左右2ヶ所) ⓛムアッジン(アザーンの呼びかけをする人)用マッフィル(2ヶ所)
礼拝室平面図
『トルコ・イスラム建築』は、1555年に完成したベシクタシュのスィナンパシャジャーミイは中央ドームの支柱が6本のモスクとしてミマールスィナンが手がけた最初のもの。
1559年に完成したカラアフメトパシャジャーミイの礼拝室は支柱が6本の集中プランである。直径 12.4mの主ドームを6本の花崗岩の円柱の上に架けたた6個の尖頭アーチの上に据えているという。
ペンデンティブが小さいことを「薄い」と表現するのか。
6本の円柱はいずれも壁から離され、少し前に出ているという。
小型のモスクはミフラーブのあるキブラ壁と入口側に、付け柱として壁面から出ていたが、ここでは壁と円柱は一体化していない。ミマールスィナンは次々とモスクを建造しているが、同じ型を使い回すことをせず、それぞれに工夫をしている。
左の支柱にくっつくような説教台には梯子が掛かっている。ギュンドアン氏が教えてくれたように日本語ではミンバルを説教壇と訳すが、イマームは説教壇には立つだけで、説教をするのは説教台の上からだというのがよく分かる。
タイルパネルは下の窓の上にあるくらいだが、後世の補修によるとみられる壁画があり過ぎる。
西の半ドームと二つの傘形スキンチ。ⓔ花崗岩の支柱は左側面と入口左側。
『Architect Sinan』は、ドームアーチを支える6本の赤い花崗岩の柱は、近隣のアヤ・ラマノス教会からモスク建設のために運ばれたと考えられている。柱頭は支柱石のブロックで支えられているが、その大きさがドームの高さを制限しているという。
古来より古い建物の柱や石材をリユースしてきた。時間と労力の削減になったのだから。
このⓘムアッジン用マッフィルの裏側(床から見上げると天井部分)には板に中国の雲のようなものが描かれている。
『Architect Sinan』は、ムアッジンエリアの天井に施されたペンワークの金箔と彩色の装飾という。
「ペンワーク」って絵画用の筆ではなく、先の細いペンで描いたいうこと?
左側面のⓔ花崗岩の支柱は、ⓙアーチでⓗ傘形スキンチがかかるⓘバットレスと繋がって支えられている。
その向こうにⓚ二階の女性用マッフィルの一部
『Architect Sinan』は、ステンドグラスの石膏の枠に、六点星と六角形を組み合わせた幾何学文様となっているという。
このステンドグラスについて詳しくはこちら
タイルパネル
同書は、スィナンが草木模様と色彩を用いて、クエルダセカタイルのパネルを貼り付けた最後のモスクという。
クエルダセカについてはこちら
修復でタイルが張り替えられていなければ、これは16世紀後半の盛期イズニクタイル ということになる。
上階が女性用マッフィル
その後トラムT1線でホテルまで戻り、集合時刻までもう少し時間があるので、近くのリュステムパシャメドレセを見学することにした。
地図 Google Earth より
❾イスタンブールエルケクリセ İstanbul Erkek Lisesi ➓リュステムパシャメドレセ ⓫エジプシャンバザール Mısır Çarşısı ⓬リュステムパシャジャーミイ ⓭ガラタ橋 ⓮イェニジャーミイ Yeni Cami ⓯エミノニュフェリー乗り場 ⓰スィルケジ駅
途中右側に長々と柵のあるバロック風の大きな建物が見えてきた。
リュステムパシャメドレセを見学したかったのは、上空からの画像で分かるように、平面が八角形という珍しいものだったからだが、塀の周りを見渡しても、それが分かるところはなかった。
同書は、講堂と入口は同軸上にはない。各部屋は外側の広場の角に配置されており、内部(八角形)の対応する辺にあるイーワーン(アーチ型の控えの間)から出入りできる。広場の角の一つにはトイレがある。この建物は、正方形と八角形の関係性に関する優れた研究であるという。
❶入口 ❷中庭 ❸シャドルヴァン(清めの泉亭) ❹回廊(八角形に巡る) ❺教室または居室 ❻講堂
正方形または長方形のメドレセなら入口の向こう正面に大きなドームの講堂が配置されているが、ミマールスィナンはその法則(あるかどうかも分からないが)に反している。
同書は、ジャーロールのリュステムパシャマドラサ(1550年)は、スィナンはアマスィヤのカプアー・メドレセ(1489年)の八角形プランを正方形の建物に組み込むことで再解釈しているという。
アマスィア Amasya は後に訪れたが、このメドレセは見学しなかった、残念! それにしてもミマールスィナンはあちこちにモスクやその複合施設を建てただけでなく、各地に出かけて古いモスクやメドレセがどのように造られていたかを調べていた。よくそんな時間があったものだ。
アマスィア カプアー・メドレセ Kapı Ağa (Büyük Ağa) Medresesi 俯瞰図 Google Earth より
Google Earth はどういても歪みが出てしまうが、平面八角形らしきことは見て取れる。そして、リュステムパシャメドレセと同様に入口の向こう正面に大ドームの講堂を配置していないので、ミマールスィナンもそれに習ったのかな。講堂の配置はリュステムパシャメドレセの方が安定感がある。メッカの方向と関係するのかな。
また同書(1998年)には、中庭を囲む回廊の小ドームとメドレセの居室や教室の少し大きなドームの図版がある。部屋には必ず暖炉の煙突もある。
現在ではもっと整備されていて、歴史博物館 Bediüzzaman Müzesi になっているはずなのに、残念!
前菜とサラダ
ラマダン用のパンで、ふんわり美味しい。中には何も入っていない。
ラフマージュンは小さいが具がぎっしり。ユスキュダルのチェーン店で出てきたものとはだいぶ違う。
ラヴァシュという薄いパンまで出てきた。
そしてメインは串に刺して焼いたキョフテ。上のラヴァシュにキョフテと野菜を包んで食べる。その上ピラウまで。
トルコのお米は長粒種と単粒種があって、私は長粒種も軽くて好きだけれど、単粒種はもっちりとして日本のお米みたいだった。
そしてデザートはバクラヴァ baklava。ユフカという薄い生地にナッツ類を挟んで焼いてシロップに漬けたもの。昔と比べると甘さ控えめ。
そしてデザートはバクラヴァ baklava。ユフカという薄い生地にナッツ類を挟んで焼いてシロップに漬けたもの。昔と比べると甘さ控えめ。
右向こうにボスポラス海峡と橋、左側は新市街、新市街と旧市街を結ぶ二階建てのガラタ橋。レストラン前の広場では選挙の催しがあったのだろうか。
そして広場のずーっと右手にあるイェニジャーミイには2本のミナレットの間に「
ahiretini unutma 来世を忘れないで」という言葉が浮かんでいた。イェニジャーミイとは「新しいモスク」という意味だけれど、1598年(ミマールスィナンの死後10年)と、ブルーモスクで知られるスルタンアフメトジャーミイより前に建設が始められたが、いろいろあって、完成したのは1665年という。
後日ヒッタイトやフリュギアの遺跡の旅に出かけましたが、その旅の記事はゆっくりと始めます。
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