その後ハトゥシャ遺跡へ。
説明パネルは、王城下の斜面(右後ろ)から谷まで広がる地域は、ハトゥシャの下町として知られている。この集落部分には、ヒッタイト人の前身であるハッティ人(この地域の先住民)が前3千年紀末にはすでに定住しており、前2千年紀初頭にはアッシリア商人の植民地もあった。ヒッタイト人の居住区は、これまでにこの地域の北と北西で発掘されている。これらは、壮大な神殿群を取り囲んでいるという。
ハトゥシャ遺跡北部の平面図 説明パネルより
❶外側城壁 ❷内側城壁 ❸遺跡の入口 ❹下の町発掘現場 ❺大神殿
❸入口を過ぎてチケット売り場で一旦バスを降りて遺跡を見渡す。
❷再建された内側城壁の一部 ❹下の町発掘現場
説明パネルは、発掘調査で発見されたテラコッタの模型に基づき、2003-05年にかけて下町でヒッタイトの城壁の一部が再建された。再建された部分は、元のヒッタイトの土台の上に建てられているという。
ヒッタイト時代の土台は石積み
『古代都市Ⅰ ヒッタイトの都』(以下『古代都市Ⅰ』)は、ハトゥシャの北部一帯は下の町と呼ばれている。ここでは大神殿が大きな位置を占めるが、同時に多数の住宅が集まる地域だったという。
同書は、下の町にはハッティ、アッシリア交易植民市時代に属するさまざまな様式の家の跡が見られる。発掘された住宅跡の土台部分を見ると、その後の時代の建築とはかなり異なった特徴がある。
大神殿の北側を占める初期の住宅は、オープン式中庭がついたシンプルなものだった。
後の時代の役人や神官、商人や職人階級は広間や玄関付きの都会的な住宅に住んでいたらしい。部屋数も増え、内部には炉やかまど、浴槽まであった。
住宅はいずれも、日干しレンガを積んだ壁に平屋根をのせていた。
当時の人口の大部分は周辺の村や農場で暮らしていたと思われるが、首都の市民のためには水汲み場が設けられ、下水道が町の外まで続いていたという。
ヒッタイト時代の浴槽は見たことがあるが、王家の人々が使うものだと思っていた。
右側が❹下の町
左側が❺大神殿とその周囲の貯蔵庫群
バスで移動して大神殿へ。 現地説明パネルより(Google Map の方が拡大して見ることができます)
❷内側城壁 ❹下の町発掘現場 ❻ライオンの水槽 ❼正門 ❽緑の石 ❾正方形の水槽 ➓本殿入口 ⓫中庭 ⓬祭壇? ⓭祭祀の間(2箇所) ⓮貯蔵用大甕のあるところ
大神殿の周囲は貯蔵庫が取り囲んでいる
大神殿の端❼正門と神殿をとりまく貯蔵庫の一部
説明パネルは、実際の神殿は複合施設の中央に位置し、外部から完全に隔離されていたという。
牛が草を食んでいたりして長閑~
まずは❻ライオンの水槽から
『古代都市Ⅰ』は、神殿の正門に向かう時、長さ5.5m程の巨大な石灰岩ブロックが目に入る。その上部には四角型の凹みが穿たれ、四方にライオン像が彫られているので、ライオンの水槽と呼ばれてきた。しかし水槽という説には疑問もあり、巨大な像の台座だったとも考えられるという。
現状でどんなものか想像するのは難しいが、
後期アッシリア彫刻を思わせるライオンの四肢の浮き彫りがプロックの長い面に残っているという。
❼正門から大神殿へ。
大きな敷石と土の部分が交互にある。
『古代都市Ⅰ』は、大神殿の南東部に正門(前門)が建っていた。3枚の大きな一枚岩から成る敷居の跡が残っているという。
通路が右へ曲がる付近に❽緑の石と❾水槽
『古代都市Ⅰ』は、巨大な敷石を並べた道が北西に向かって伸びているが、すぐ左側の貯蔵庫の跡地に置かれた、緑色の石が訪れる者の眼を引くという。
同書は、この美しい石がどんな役割をはたしていたのかは謎であり、本来この場に置かれていたとも思われないが、ハットゥシャ周辺の閃緑岩の採石場から運ばれたものと推定されるという。
向かい合って座り、ドリルに結びつけた糸を引いたり緩めたりして石に穴をあけるのは、ヒッタイトの石工たちにとって難しいことではなかったらしいという。
大きな石材を凹字型に切り揃えるのも大変だったと思うが。
前14-13世紀に下水道があったとは。
水槽から大神殿の角と囲む通路
本殿入口前の通路
➓本殿入口
正門の入口と同じように3枚の大きな一枚岩から成る敷居がある。そして大きな石材の間の平たい石があって、守衛が立つ場所だったのだろう。
『古代都市Ⅰ』は、。門の二枚の扉を支えていた柱の穴が残り、どっしりと重い大きな扉を開閉した痕跡も見える。敷居に使われた5.75m、36トンの巨大な石が見る者の眼を驚かす。大小の部屋を備えた立派な門を過ぎると、27×20mの中庭に出るという。
『古代都市Ⅰ』は、神殿を囲む82棟の貯蔵庫群。敷地の傾斜具合により、南東と南西、西側の貯蔵庫は二階建て、 北東と北西側は三階建てとなっており、各階を結ぶ階段跡も確認されている。このようにして計算してみると、大神殿に属する貯蔵室の総数は200にものぼる。貯蔵庫にはいけにえの動物のための部屋もあった。
本殿を取り巻くNo33・34・37・38・41の貯蔵室には巨大な甕がヒッタイト時代そのままに二列に並んでいる。動かすことができないように、土中に深く埋め込まれた大中小3種類の巨大な貯蔵瓶の容量は、大が3000L、中が1759L、小は 900Lとなっている。瓶の頚部に封印の跡や内容を表す記号が残るものもある。これらの貯蔵瓶にはオイルやワインなどの液体、穀物や豆類が保存されていたという。
段差によって三階建ての貯蔵庫として造られたということか、やっと納得。
30年前にトルコの旅をしたときはなんの知識もなく、アンカラのアナトリア文明博物館でヒッタイトの遺物を見たのがきっかけで、ヒッタイトの都ハトゥシャを調べていると巨大な甕が土に埋められて貯蔵庫として使われていたことを知った。ところが、今回の旅でそれを見ることができなかったのだが、それは広大な遺跡の別の場所にあるか、もう博物館に収蔵されているからだろうと思っていた。
見たかった貯蔵用大甕 アナトリア文明博物館のパネル
ところが帰国後 Google Map でも大神殿貯蔵庫群の中に⓯貯蔵用大甕があるのを見つけた。でも何故現地で見ることができなかったのだろう。自分の写真と Google Map とを見比べていて気が付いた。写真左端の水色の素屋根で覆われているところに保存用大甕があったのだ。
その後は大神殿へ。
大神殿の想像復元図(説明パネルより)
説明パネルは、実際の神殿は複合施設の中央に位置し、外部から完全に隔離されていた。
ハトゥシャ最大の神殿。おそらく、王国の最高神であるハッティの風神とアリンナの太陽の女神に捧げられたものと思われる。建物の土台部分のみが大きな石灰岩のブロックで造られていた。その上に、日干しレンガを積んだ木骨造りの壁が築かれていたが、現在では何も残っていない。今は、木骨造りの壁と石の土台を繋いでいたダボ穴が数多く見られる。神殿は、泥で固められた典型的な平らな屋根で覆われていたという。
現在は積み石の土台しか残っていないので、中庭の奥まで見通せる。
同書は、。中庭の南西に神殿職員が出入りした狭い通路がある。その下には排水路が設置され、中庭に溜まった水が流れ込むようになっていたという。
祭壇とされる遺構を写しておられる。それが神殿職員が出入りした通路だろうか?
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「古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ」(日本語版)2013年 URANUS
参考にしたもの
現地説明パネル
































