お知らせ

やっとアナトリアの遺跡巡りを開始しました。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2025年12月19日金曜日

カマンカレホユック 博物館と遺跡


本日はアンカラからカマンカレホユックへ。
地図 Google Earth より
ⓐアンカラ ⓑビュクリュカレ遺跡 ⓒカマンカレホユック遺跡 ⓓヤスホユック遺跡
アナトリア考古学研究所が発掘しているのはⓑⓒⓓの3箇所


クズルウルマク川を渡ってアンカラ郊外に出てムガン池のそばを通り、

一面の麦畑や

ごろごろ石で覆われた所や岩だらけの山を見ながら


山の手前の赤い土の崖もあって、


耕された畑と青々とした麦畑が縞のようになっていたり、


蛇行する自動車道もありいので車窓を楽しんで、

クズルウルマク川を越えたのも気付かずに、いつの間にか❶カマンカレの町に来ていた。❷カマンカレホユック遺跡の前に❸カマンカレホユック博物館に向かった。 
地図はGoogle Earth より


カマンカレホユック博物館は遺丘風に造られて、周囲の景色と馴染んでいた。

石製の出土品がお出迎え


入口前にはライオン像が二体あったが、説明パネルを写し損ねたのでどこのものか分からない。


中にはカマンカレホユックと発掘の箇所が再現されていた。手前は北区

この段々が一つ一つの文化層

表土に近いところが現代に近い文化層になるのだが、

上の方の焼土層っていつの時代?


斜めから見ると文化層を表す色の異なるライトが点滅する。


その後別室にて大村幸弘氏のお話があり、大勢の若いトルコ人との中に空いた席を探して坐る。まずトルコ語で、次に日本語で静かに語る大村氏に聴き入った。
トルコの人たちが一日三千人も来るという。

その後館内出土物がずらりと積まれたコーナーを大村氏の説明を聞きながら見ていった。

出土したものは全て保管し、展示されているという。



黒い三つ葉形水差し


彩文土器 カマン・カレホユック層IId出土 「暗黒時代」
説明パネルは、赤と黒の彩色で装飾されており、鉄器時代の地中海沿岸地域に広く分布している。これらの土器は、内面に特徴的な張り出した口縁と、明らかに轆轤で作られたことを示す痕跡を有している。ジグザグの平行線といったシンプルな幾何学文様が多い。把手から伸びる大きな波線は、前2千年紀のギリシア、ミケーネ文化からの間接的な影響を示しており、この彩文土器文化が地中海地域からもたらされたことを示しているという。

暗黒時代について説明パネルは、いわゆる「暗黒時代」とは、ヒッタイト帝国の崩壊後、フリュギア人がバルカン方面から移住してきて王国を建設するまでの時代を指します。この時期は、人々が居住した痕跡が見られない空白の時代と長年言われてきましたが、カマン・カレホユック遺跡の発掘調査で、この時代の集落が初めて確認されました。それがIId層です。カマン・カレホユック遺跡IId層では、地中海地域との結びつきを示す二色彩文の土器や、キプロス島に特徴的な形式のフィブラ等、この時代の文化を南方の文化と結びつける資料が出土していますという。
昔々はこの「暗黒時代」はヒッタイト帝国が統治していたアナトリアだけでなく、ミケーネにも当てはまるほどかなり広い範囲で言われていて、それは「海の民」によって各地の国などが滅亡してしまったからだと言われてきた。何故「海の民」かというと、エジプト第20王朝のラメセス三世期に海からやってきた敵を打ち負かしたのでその名で呼んだから。現在では否定されるようになってきた。


浮彫付き土器片 IIIb層出土 ヒッタイト古王国時代
ヒッタイト時代の装飾付き壺を思わせる断片も

スタンプ印章 III層出土 ヒッタイト時代
説明パネルは、アナトリアでは新石器時代以来スタンプ形印章が使用されていましたが、前3千年紀末に、メソポタミアからもたらされた円筒形印章は、前2千年紀第1四半期のアッシリア商業植民地時代に、主に商人たちにより大量に使用されました。しかし、前2千年紀中頃ヒッタイトの時代になると、再びスタンプ形印章が主流となり、銘も楔形文字ではなくヒッタイトの象形文字(ルイ語)で刻まれという。
スタンプ印章

そして印影のある封泥の断片



展示室の壁には発掘時の写真パネルがあるので興味深い見学となったが、一年半も前のことなので、いろいろと説明していただいたのに、申し訳ないことにもう忘却の彼方である。


ここが焼土層だったかな? 大いにピンボケ


ヒッタイト時代初期の土器類
白い土器については後日忘れへんうちににて

発掘そのものも大変だが、それを洗浄し、仕分けし、復元するのももっと時間のかかる作業である。大村氏の奥様の正子氏も考古学者で、その作業が一番丁寧だと褒めておられた。
残念なことに、大村幸弘氏は今年亡くなられた。


ジオラマがあるとは言え、写真パネルで知る実際の層の深さ。


展示ケースもあちこちにあって、撮影している間に肝心なことを聞き逃してしまう。

後期鉄器時代の出土物

土器・スタンプ印章・スフィンクスの浮彫のある土器の断片

ナイフと斧 鉄

フィブラと鏃 銅化合物

アナトリア考古学研究所が発掘調査しているヤスホユックやビュクリュカレなどの遺物も収蔵されているが、どこからの出土物か確かめなかったものも多い。


豹の頭部 時代不明 ガラス
丸い形に浅く彫って青系の丸いものを貼り付けたようで、剥落した箇所もある。目は黒色で、その輪郭は金だろうか。小さな可愛い作品だけれど、何のためにつくったのだろうか。


ガラス瓶 古ヒッタイト時代 前1600年頃 ビュクリュカレ出土
ガラス制作はミタンニが最初だと思っていた。詳しくは後日忘れへんうちににて

ガラスがもう1点
何かわからないが、右端に穴があるのでペンダントトップかも。


上空から見たカマンカレホユック遺跡 覆いのかかっているところが北区

発掘調査に参加した人たちの写真や

右上の1986年の発掘調査開始から1997年までの発掘

1998年から2009年まで


2010年から2022年まで



館内を見終わって外に出たら反対側にも石造物が並んでいたが、ギリシア・ローマ時代のものが多そう。

その中で異彩を放っていたのが、というより、私の興味を惹いたのがこの「牛石」
説明パネルは、祭壇石、あるいは聖なる水盤として使われていたと考えられているこの遺物は、地元では「牛石」として知られている。一枚の花崗岩から作られ、背中は水盤の形に彫られている。前面には2頭の牡牛の頭が高浮彫で彫られている。雄牛の耳と角は両側に突き出ており、目は丸く、浅浮彫。鼻の下、口の部分には、水盤まで続く丸いほぞ穴が掘られており、水盤から水や液体を出すためのもの。
水盤は水がスムーズに流れるように、わずかに前方に傾斜して造られている。二頭の牡牛は、ヒッタイトの嵐の神テシュプの聖なる牡牛であるフリ(夜)とシェリ(昼)に関連している可能性があると考えられており、これらの特徴を考慮すると、神殿や聖域の入口に、トリンマ(沐浴)を行うために置かれた可能性があるという。
これもヒッタイト時代の遺物。


博物館を回り込んでいく。左端は牡牛の水盤


カマンカレホユック博物館


日本庭園

日本庭園はトルコの人たちにも人気で、結婚式の写真の映えスポットになっているという。

ぐるりと回り込んで別の建物へ

中央に八角形の屋根があり、

その下にはテーブル付き椅子が整然と並んでいた。

周囲には図書室も、

土器の調査を行ったり、

出土物の仕分けをするところも。


復元を待つ大きな土器片などが置かれていた。



最後に大村正子氏にお茶を出して戴いた。とても上品な方で、写真を撮るのが憚れるほど。

その後バスでカマンカレホユック遺跡へ。発掘調査の期間ではないので、外から遺丘を眺めた。思えばホユック、フユック、テルなどと呼ばれる遺丘を実際に見たのはこれが初めて。



その後アンカラに戻って休憩。夕食は魚のレストランに出掛けた。
日本では見られないディスプレイ

魚のスープ

サラダ


大きな魚のグリルにはシンプルな付け合わせ。


カマンカレで戴いたお昼のデザートは大きめのバクラヴァだったが、ここでは濃厚なチョコレートで覆われたアイスクリーム。


ハトゥシャ遺跡 門巡り

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参考にしたもの
説明パネル