出てきたところはフォロ・ロマーノへの下り坂の途中だった。
上の方はドムス・フラウィアの⑯通称バシリカ(Basilica)の西側の道へ繋がっているようだ。
下の方はパラティーノの丘への出入口になっているらしい。まだ③ティベリウス宮殿に行っていないので、出口に行ってしまわないように気をつけよう。
道の向かいに見えているのは㉜サン・セバスティアーノ教会域(Chiesa di S.Sebastiano)。
ファルネジアーニ庭園(Orti Farnesiani)は広大だ。『地球の歩き方ローマ』は、かつてドムス・ティベリアーナ(ティベリウスの宮殿)のあった土地に、16世紀、ファルネーゼ家が造った庭園の一角で、ここから眺めるフォロ・ロマーノの全景はこのうえなく印象的だ。アレッサンドロ・ファルネーゼが造らせた庭園は世界で最初の植物園で、当時の雰囲気をよく残しているという。
その庭園の北の端からフォロ・ロマーノを見下ろしたい。
大きな地図で見る
そのまま壁跡の内側を下りていくと、正面に大きなアーチが3つ並んだ遺構が現れた。マクセンティウスとコンスタンティヌスのバシリカ(Basilica di Massenzio e constantino)だ。
木の向こうからはフォロ・ロマーノの遺構がいろいろ見える。
③ティベリウス宮殿はかなり高いところにあるので、パラティーノの丘の下の方まで来てしまったために、登って行かなくてはならない。ところが、工事をしていて、西の方に登る道はことごとく通行禁止になっていた。
低いところからでもフォロ・ロマーノの西の端まで見えるのだが、木々に隠れるところもあるので、フォロ・ロマーノの全体像が把握できない。
もう少し下るとレンガの遺構が並んでいる。②ウィア・ノーウァ(新道、Via Nova)と言われても道路には見えない。
『ローマ古代散歩』は、西の崖下の道はネロの時代につくられた新道といい、沿道には商店や住居跡が、さらに先に崖上の宮殿を支えるためのアーチが続いているという。
ここから行けるかと思ったが、通行止め。
反対側に下りていくとパラティーノの丘の入口になってしまった。ということは、いつのまにか出てしまったのだ。元来た道を引き返している余裕はない。これにてパラティーノの丘の見学終了、10時21分。1時間半では足りない。
坂を下りたところがティトゥスの凱旋門。①建物の基礎は、アウグストゥスの生家跡にその妻リウィアが建てた聖域跡ではないかされているというが、遺構だらけで、どれを指しているのかわからなかった。
次の予定はコロッセオ。ティトゥスの凱旋門(Arco di Tito)の右の道を通る。ティトゥスは在位39-81年。
コロッセオが前方に現れた。右側は木の間から遺構が見える。左の柱頭のない列柱は何だろう。
通り過ぎて先ほどの列柱を振り返ると、半ドームに菱形の刳り型が並んだ建物が見えた。こちらから見ると高台に築かれたように見える。これはウェヌスとローマの神殿(Tempio di Venere e Roma)というものらしい。
『ローマ古代散歩』は、ハドリアヌス帝によるユニークな建築の一つで、かまぼこ型天井をもつ両女神の神室が背中合わせになっているという。ハドリアヌスは在位117-138年。
フォロ・ロマーノとコロッセオの間は車の通行ができないので安心して歩ける。その間にはコンスタンティヌスの凱旋門(Arco di Constantino)がある。
政敵マクセンティウスを破って西の正帝となった記念に、315年に建てられたものである。高さが25mにも及ぶ巨大なモニュメントであるという。コンスタンティヌスは在位306-337年で、今まで出てきた皇帝の中で一番時代が下がる。
※参考文献
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)
「地球の歩き方A10 ローマ」(2009年 ダイヤモンド・ビッグ社)
お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2010年12月29日水曜日
2010年12月28日火曜日
2-11 パラティーノの丘、ネロの地下通廊(Criptoportico Neroniano)
⑩リウィアの家の北側の通路を歩いていると行き止まりになり、左に曲がった。
そこは壁に囲まれた狭い通路だったが、アーチの上には柵がある。柵があるということは、あの上に人が行くことができる。ファルネーゼ公園と繋がっているようだ。ここが地下通廊なら上の天井が抜けてしまったのだろうか。
右壁の切れているのは通路ではなく凹み。
トンネル(としか思えない)に入ると、ストゥッコによる壁面装飾が残っていた。ヴォールト天井ではなく壁面なのに丸味がある。
当初から彩色がなかったのだろうか。細部を見ると、博物館で見たネロの宮殿跡出土の天井画や壁画に似ている。
トンネルを1つ抜けたら、向こうにもまたトンネルがあった。この通廊の床は白いテッセラが嵌め込まれた舗床モザイクになっている。両端には黒い帯が路側帯のようだ。
右側にも通廊があった。こちらの方が地下らしい雰囲気がある。
こちらも両端に黒い帯のあるシンプルな舗床モザイクとなっている。あれ、トンネルの先は、ドムス・フラウィアの終わる辺りで見下ろすとあった、同じような舗床モザイクがある床と階段や。向こうに行って見たかったが、ここにも通行禁止の鎖があった。
ひょっとすると⑯通称バシリカ(Basilica)の地下にあるというイシスの間(Aula Isiaca)に通じているのかも。
2つ目のトンネル、いや地下通廊に入る。この上も庭園風。
最初からあったのか、あちこちに開口部があるので、この辺りはあまり暗くない。
その先が暗かったので、早足で通り抜けてしまった。その先は中国のヤオトン(窰洞)のようで違和感があった。
出ると左も前も壁。右に行くしかない。
やはりヴォールト天井ではなく壁面になった狭い通路から出ると緑がいっぱい。『ローマ古代散歩』は、ファルネーゼ公園の区画には③ティベリウス宮殿が建っていたというが (略) 東側にネロがつくったドムス・トランシトリアとは地下通廊でつながれ、上階はカピトリウムとフォロを望む見晴らしのよい屋上庭園になっていたという。
ファルネーゼ公園が造られる以前から屋上庭園というものがあったようだ。
ところで、『ROMA』は、前の邸宅(一時期のドームス・トランシトリア)が64年の火事で崩壊した後に、郊外のヴィッラというモデルにしたがって、セウェルスとケレスがネロ帝のためにドームス・アウレア(Domus Aurea)を建設したという。地下通廊が壊れているのもこのためだ。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)
そこは壁に囲まれた狭い通路だったが、アーチの上には柵がある。柵があるということは、あの上に人が行くことができる。ファルネーゼ公園と繋がっているようだ。ここが地下通廊なら上の天井が抜けてしまったのだろうか。
右壁の切れているのは通路ではなく凹み。
トンネル(としか思えない)に入ると、ストゥッコによる壁面装飾が残っていた。ヴォールト天井ではなく壁面なのに丸味がある。
当初から彩色がなかったのだろうか。細部を見ると、博物館で見たネロの宮殿跡出土の天井画や壁画に似ている。
トンネルを1つ抜けたら、向こうにもまたトンネルがあった。この通廊の床は白いテッセラが嵌め込まれた舗床モザイクになっている。両端には黒い帯が路側帯のようだ。
右側にも通廊があった。こちらの方が地下らしい雰囲気がある。
こちらも両端に黒い帯のあるシンプルな舗床モザイクとなっている。あれ、トンネルの先は、ドムス・フラウィアの終わる辺りで見下ろすとあった、同じような舗床モザイクがある床と階段や。向こうに行って見たかったが、ここにも通行禁止の鎖があった。
ひょっとすると⑯通称バシリカ(Basilica)の地下にあるというイシスの間(Aula Isiaca)に通じているのかも。
2つ目のトンネル、いや地下通廊に入る。この上も庭園風。
最初からあったのか、あちこちに開口部があるので、この辺りはあまり暗くない。
その先が暗かったので、早足で通り抜けてしまった。その先は中国のヤオトン(窰洞)のようで違和感があった。
出ると左も前も壁。右に行くしかない。
やはりヴォールト天井ではなく壁面になった狭い通路から出ると緑がいっぱい。『ローマ古代散歩』は、ファルネーゼ公園の区画には③ティベリウス宮殿が建っていたというが (略) 東側にネロがつくったドムス・トランシトリアとは地下通廊でつながれ、上階はカピトリウムとフォロを望む見晴らしのよい屋上庭園になっていたという。
ファルネーゼ公園が造られる以前から屋上庭園というものがあったようだ。
ところで、『ROMA』は、前の邸宅(一時期のドームス・トランシトリア)が64年の火事で崩壊した後に、郊外のヴィッラというモデルにしたがって、セウェルスとケレスがネロ帝のためにドームス・アウレア(Domus Aurea)を建設したという。地下通廊が壊れているのもこのためだ。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)
2010年12月27日月曜日
2-10 パラティーノの丘、ロムルスの家
⑪アウグストゥスの家の南西方向にも屋根の架かったところがある。あれが⑦ロムルスの家かも。そして、その向こうに見える塔は「真実の口(Bocca della Verita)」で有名なサンタ・マリア・イン・コスメディン(Santa Maria in Cosmedin)教会のもの。いつの間にかチルコ・マッシモ(Circo Massimo)の西の端まできていた。
柵があるため、ロムルスの家には直接行くことができない。⑩リウィアの家(Casa di Livia)の西にあるスロープを下って遠回りする。
リウィアの家の向かいには井戸のようなものがある。⑧古井戸跡(Cisterna arcaica)だ。ここも屋根がかかっているが、『ローマ古代散歩』は、王政期の遺構には屋根がかけられているという。王政期とは、伝承では前763年に初代ローマ王ロムルスが建国し、前510年(または前509年)に第7代の王が追放されるまで(Wikipediaより)らしい。
リウィアの家前のスロープを下りていくと、想像していたよりも大きな井戸があった。向こうの屋根の下にロムルスの家があるらしい。
井戸を過ぎて、修復中の⑨大地母神キュベレー神殿(Tempio di Magna Mater)の脇からロムルスの家方向に回り込む。東側の屋根のある遺構は何だろう。
遠くに白く博物館が見える。左の四角い建物は⑪リウィアの家、そして、その南、こちらからは正面にある白い屋根の架かったところが⑩アウグストゥスの家だろう。
アウグストゥスの家らしきものは、その下の屋根まで続いているらしい。
しかし、今は⑦ロムルスの家を探さないと。この石積みの四角い遺構は何だろう。
それに続く遺構。まったくわからない。
大きな屋根の下の遺構はまだまだ続いている。
『ROMA』には、鉄器時代の小屋としてこのような掘っ立て柱の穴のある場所を挙げている。
ある伝説によると、ヘラクレスと、その後にアイアネスが、パラティーノの丘でギリシャからの移民集団を見つけたという。南イタリアが植民地となる以前から、ギリシャの船乗りや商人たちがすでにいたことが、最近の発掘調査で確認されている。鉄器時代の小屋の発見は、ロムルスによる建国物語をも証明しているようだという。
大きな屋根の下の遺構はギリシャ人たちの暮らしの跡のようだ。そして、その遺構の中にロムルスの家(Fondi di capanne)とされた小屋の掘っ立て柱の穴を見つけた(上写真の矢印)。
それはこのような小屋だったと、構内の博物館に模型で示されているらしい。⑳博物館で見逃したらしい。
このような古い一角の北側にもアーチ列がある。⑤ティベリウス宮殿(Domus Tiberiana)の小部屋と呼ばれる遺構だ。
ティベリウス宮殿跡は、広大なファルネーゼ庭園(Orto Farnesiani)が広がっていて、その北西端からフォロ・ロマーノを見下ろすことができるらしい。人が向こうの石段を通って庭園の方に行くので、我々も石段を登りかけたが、こちらから行くと④ネロの地下通廊(Criptoportico Neroniano)を通れなくなるので引き返した。
⑩リウィアの家の北側を通ってネロの地下通廊へ。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)
柵があるため、ロムルスの家には直接行くことができない。⑩リウィアの家(Casa di Livia)の西にあるスロープを下って遠回りする。
リウィアの家の向かいには井戸のようなものがある。⑧古井戸跡(Cisterna arcaica)だ。ここも屋根がかかっているが、『ローマ古代散歩』は、王政期の遺構には屋根がかけられているという。王政期とは、伝承では前763年に初代ローマ王ロムルスが建国し、前510年(または前509年)に第7代の王が追放されるまで(Wikipediaより)らしい。
リウィアの家前のスロープを下りていくと、想像していたよりも大きな井戸があった。向こうの屋根の下にロムルスの家があるらしい。
井戸を過ぎて、修復中の⑨大地母神キュベレー神殿(Tempio di Magna Mater)の脇からロムルスの家方向に回り込む。東側の屋根のある遺構は何だろう。
遠くに白く博物館が見える。左の四角い建物は⑪リウィアの家、そして、その南、こちらからは正面にある白い屋根の架かったところが⑩アウグストゥスの家だろう。
アウグストゥスの家らしきものは、その下の屋根まで続いているらしい。
しかし、今は⑦ロムルスの家を探さないと。この石積みの四角い遺構は何だろう。
それに続く遺構。まったくわからない。
大きな屋根の下の遺構はまだまだ続いている。
『ROMA』には、鉄器時代の小屋としてこのような掘っ立て柱の穴のある場所を挙げている。
ある伝説によると、ヘラクレスと、その後にアイアネスが、パラティーノの丘でギリシャからの移民集団を見つけたという。南イタリアが植民地となる以前から、ギリシャの船乗りや商人たちがすでにいたことが、最近の発掘調査で確認されている。鉄器時代の小屋の発見は、ロムルスによる建国物語をも証明しているようだという。
大きな屋根の下の遺構はギリシャ人たちの暮らしの跡のようだ。そして、その遺構の中にロムルスの家(Fondi di capanne)とされた小屋の掘っ立て柱の穴を見つけた(上写真の矢印)。
それはこのような小屋だったと、構内の博物館に模型で示されているらしい。⑳博物館で見逃したらしい。
このような古い一角の北側にもアーチ列がある。⑤ティベリウス宮殿(Domus Tiberiana)の小部屋と呼ばれる遺構だ。
ティベリウス宮殿跡は、広大なファルネーゼ庭園(Orto Farnesiani)が広がっていて、その北西端からフォロ・ロマーノを見下ろすことができるらしい。人が向こうの石段を通って庭園の方に行くので、我々も石段を登りかけたが、こちらから行くと④ネロの地下通廊(Criptoportico Neroniano)を通れなくなるので引き返した。
⑩リウィアの家の北側を通ってネロの地下通廊へ。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)
2010年12月26日日曜日
2-9 パラティーノの丘、アウグストゥスの家とリウィアの家
⑯通称バシリカ(Basilica、地下はイシスの間 Aula Isiaca)の西側から歩いて行くと素屋根のかかった建物が見えてきた。この辺りがパラティーノの丘では最も古い遺構の残る地域だ。
⑩リウィアの家の裏側と思うような家屋に突き当たった。そこは中庭があるものの、質素な建物だった。
グ-グルアースで見るとやはりリウィアの家の裏側の逆コの字の家だ。
大きな地図で見る
右側に家を見ながら歩いて行くと、内部が見えてきた。通路を挟んで細かく区画されている。
正方形を斜めに並べたような壁があちこちに見られる。上部は残っていないが、そのために、返って壁の中身がむき出しになっている。これがローマン・コンクリートだ。
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、壁として構築する場合、通常、石材や煉瓦によって仮枠を造り、その中にコンクリートを流し込んで凝固させ、石材や煉瓦による仮枠はそのまま残していた。そのため、この外側の壁の造りには次のような特徴があり、年代的な変化もみられる。 (略) 整層積み(opus quadratum、帝政初期)、網目積み(opus reticulatum、前1~後2世紀)という。
これは網目積みになるだろう。このことを知らない時は、このような壁面を図版で見ても、形をそろえた切石を積み上げた石壁だと思っていた。この旅行が決まってから、改めて調べていてローマン・コンクリートなるものを知ったのだった。
さて、この網目積みの壁には丸い穴がところどころあいているが、注意して見ると、正方形の石材があちこちで剝がれているので、並べた石が思ったよりもずっと薄いこともわかった。
通路の南側には柱頭などの破片が並べてある。その向こうには荒い造りの壁体が見える。⑫アポロ神殿の基壇(Tempio di Apollo)だろうか。
アウグストゥスの家は彼が建立したアポロ神殿の西脇に位置し、リウィアの家はその北側の区画であるという。通路はここで右(西)へ折れている。
南側の土地は段状になり、かつ段々と低くなっていく。これがアポロ神殿跡かな。
また柵で仕切ってあると思ったら、⑪アウグストゥスの家(Casa di Augusto)への入口だった。見学はできないだろうなと思っていたが、A4の張り紙には見学できる曜日などが記されていた。
建物自体が見えないので、先ほど博物館で見た壁画がここにあったのだなあなどとも思わなかった。
右側はというと、均等に尖ったレンガの角の出た壁が現れ、その先にはアーチが並んでいる。
アーチの一つ一つが半地下になったヴォールト天井の部屋だった。使用人たちの個室だったのだろうか。
次の分かれ道を右折するとそれが下写真のような新しい建物に覆われた⑩リウィアの家(Casa di Livia)があった。
主要な部屋は4室のみで、いずれも小さな中庭に面している。タブリヌム(主室)が中央にある3室は南側、トリクリニウム(宴会用の部屋)は西側である。本図の壁画がある部屋はタブリヌムの西隣であるという。
ということは、上の写真はタブリヌムかその副室ということになる。このような部屋の並びに葉綱の壁画があったとは。
しかし、共和政末期のパラティヌス丘は、カピトリヌス丘に次いで由緒のある地域で、多くの貴族たちが住んでいた。しかし帝政期に入り、ティベリウス帝(在位 後14-37)やドミティアヌス帝(在位 後81-96)が壮大な皇帝の宮殿を建設したため、共和政期の住宅はほとんど消滅してしまった。その例外的な住宅の一つがアウグストゥス(在位 前27-後14)の私邸で、通常「アウグストゥスの家」と呼ばれている。また、「リウィアの家」と称されている建物も最近の調査によりその一部であることが判明しているが、慣例上そのままの名称で呼んでいるという。
リウィアの独立した屋敷という訳ではなかったようだ。
見学ができないので、リウィアの家の中がガラス越しに見える西側から、カメラをできるだけガラスに近づけて写してみた。ヴォールト天井の部屋がこの両側にもあったが、当時の支配者の邸宅と言えども、あまり大きな部屋ではなかったようだ。
西側にはトリクリニウムがあるということだが、当時の宴会というのは、部屋の三方に寝台を置いて、横に寝そべって、部屋の中央に置かれたテーブルの上に並んだごちそうを食べるというものだ。部屋の中央には舗床モザイクがあったというのを誰かに聞いたような気がするが、見えている部屋は宴会ができる程の広さも、舗床モザイクもないのでは。
その南側の部屋には何かわからないが、剝がされた壁画を額に入れて壁面に掛けてあるようだ。そしてこの部屋の手前には、黒石と白石のテッセラで、玄関マットのような舗床モザイクがあるので、出入り口がこちら側にあったのだろう。
共和政期の邸宅がすべて取り壊されたにもかかわらずアウグストゥスの家だけが残されたのは、ローマ帝国の創建者が起居した場所として尊重されたからであるという。
※参考文献
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)
⑩リウィアの家の裏側と思うような家屋に突き当たった。そこは中庭があるものの、質素な建物だった。
グ-グルアースで見るとやはりリウィアの家の裏側の逆コの字の家だ。
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右側に家を見ながら歩いて行くと、内部が見えてきた。通路を挟んで細かく区画されている。
正方形を斜めに並べたような壁があちこちに見られる。上部は残っていないが、そのために、返って壁の中身がむき出しになっている。これがローマン・コンクリートだ。
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、壁として構築する場合、通常、石材や煉瓦によって仮枠を造り、その中にコンクリートを流し込んで凝固させ、石材や煉瓦による仮枠はそのまま残していた。そのため、この外側の壁の造りには次のような特徴があり、年代的な変化もみられる。 (略) 整層積み(opus quadratum、帝政初期)、網目積み(opus reticulatum、前1~後2世紀)という。
これは網目積みになるだろう。このことを知らない時は、このような壁面を図版で見ても、形をそろえた切石を積み上げた石壁だと思っていた。この旅行が決まってから、改めて調べていてローマン・コンクリートなるものを知ったのだった。
さて、この網目積みの壁には丸い穴がところどころあいているが、注意して見ると、正方形の石材があちこちで剝がれているので、並べた石が思ったよりもずっと薄いこともわかった。
通路の南側には柱頭などの破片が並べてある。その向こうには荒い造りの壁体が見える。⑫アポロ神殿の基壇(Tempio di Apollo)だろうか。
アウグストゥスの家は彼が建立したアポロ神殿の西脇に位置し、リウィアの家はその北側の区画であるという。通路はここで右(西)へ折れている。
南側の土地は段状になり、かつ段々と低くなっていく。これがアポロ神殿跡かな。
また柵で仕切ってあると思ったら、⑪アウグストゥスの家(Casa di Augusto)への入口だった。見学はできないだろうなと思っていたが、A4の張り紙には見学できる曜日などが記されていた。
建物自体が見えないので、先ほど博物館で見た壁画がここにあったのだなあなどとも思わなかった。
右側はというと、均等に尖ったレンガの角の出た壁が現れ、その先にはアーチが並んでいる。
アーチの一つ一つが半地下になったヴォールト天井の部屋だった。使用人たちの個室だったのだろうか。
次の分かれ道を右折するとそれが下写真のような新しい建物に覆われた⑩リウィアの家(Casa di Livia)があった。
主要な部屋は4室のみで、いずれも小さな中庭に面している。タブリヌム(主室)が中央にある3室は南側、トリクリニウム(宴会用の部屋)は西側である。本図の壁画がある部屋はタブリヌムの西隣であるという。
ということは、上の写真はタブリヌムかその副室ということになる。このような部屋の並びに葉綱の壁画があったとは。
しかし、共和政末期のパラティヌス丘は、カピトリヌス丘に次いで由緒のある地域で、多くの貴族たちが住んでいた。しかし帝政期に入り、ティベリウス帝(在位 後14-37)やドミティアヌス帝(在位 後81-96)が壮大な皇帝の宮殿を建設したため、共和政期の住宅はほとんど消滅してしまった。その例外的な住宅の一つがアウグストゥス(在位 前27-後14)の私邸で、通常「アウグストゥスの家」と呼ばれている。また、「リウィアの家」と称されている建物も最近の調査によりその一部であることが判明しているが、慣例上そのままの名称で呼んでいるという。
リウィアの独立した屋敷という訳ではなかったようだ。
見学ができないので、リウィアの家の中がガラス越しに見える西側から、カメラをできるだけガラスに近づけて写してみた。ヴォールト天井の部屋がこの両側にもあったが、当時の支配者の邸宅と言えども、あまり大きな部屋ではなかったようだ。
西側にはトリクリニウムがあるということだが、当時の宴会というのは、部屋の三方に寝台を置いて、横に寝そべって、部屋の中央に置かれたテーブルの上に並んだごちそうを食べるというものだ。部屋の中央には舗床モザイクがあったというのを誰かに聞いたような気がするが、見えている部屋は宴会ができる程の広さも、舗床モザイクもないのでは。
その南側の部屋には何かわからないが、剝がされた壁画を額に入れて壁面に掛けてあるようだ。そしてこの部屋の手前には、黒石と白石のテッセラで、玄関マットのような舗床モザイクがあるので、出入り口がこちら側にあったのだろう。
共和政期の邸宅がすべて取り壊されたにもかかわらずアウグストゥスの家だけが残されたのは、ローマ帝国の創建者が起居した場所として尊重されたからであるという。
※参考文献
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)
2010年12月25日土曜日
2-8 パラティーノの丘、ドムス・フラウィア
⑳博物館の外階段から地面を浅く掘り込んだ遺構が見えた。あれがドムス・フラウィアの⑰八角形の遺構だ。しかし、柵があるので直接には行けない。
ドムス・フラウィアは、⑰八角形の遺構の他に、南の⑱食堂(トリクリニウム、Triclinio della Domus Flavia)と北の⑮アウラ・レギア(王の間、Aula Regia)と⑬その前廊部分、その西の⑯通称バシリカ(Basilica、地下はイシスの間 Aula Isiaca)、東の⑭通称ララリウム(c.d. Laralium、地下はグリュプスの家)泉水堂(ニンフェウム Ninfeo)がある。
⑰ペリスティリウム(Peristilip della Domus Flavia、柱廊に囲まれた中庭)の中心部は、あまりにも平たいので何重かの八角形くらいにしかわからない。
そんな時はグ-グルアースで真上から見るのが一番。柱廊の柱跡が四角く並んでいる。
大きな地図で見る
『ROMA』は、この巨大な宮殿は、ドミティアヌス帝が建築家ラビリウスに命じ、すでに存在していた建造物を取りこみながら81年から96年にかけて建てられた。迎賓の空間として、公務用のドームス・フラーヴィア(Domus Flavia)と中にスタディウムもある私的空間としてのドームス・アウグスターナとに分けるのが通常である。ドームス・フラーヴィアの現在の入口は、長方形のペリスティルム(列柱廊)として形作られた巨大なアトリウム(玄関ホール)に入ることができ、その中央にはかつて迷路模様で飾られた噴水であった八角形の水盤があり、いくつかある迎賓の間は噴水に面していたという。
グ-グルアースでは、柱廊の西側にはそのような部屋跡が並んでいるのが見える。
これくらいの高さから見ると、八角形の中が迷路状に仕切られていることや、それを列柱廊が巡り、そしてその外側に迎賓の間が並んでいた様子が理解できる。
(後に通った④ネロの地下通廊にあった写真)
アトリウムから北に行くと⑮王の間跡は草が生えているだけだが、立ち入り禁止になっていた。
その東⑭のところはCASA DEI GRIFIと表示があり、立ち入り禁止。ここは地上にはララリウム、地下にはグリュプスの家があるらしいのだが。
視界が開けたと思ったら、アトリウムの北側に来ていた。ずっと南の方に⑱食堂の遺構があるのだが、どこから行けば良いのかわからない。
⑮王の間の南端には周囲の弧を描いた遺構があった。王の間の平面は楕円に近かったようだ。
上には大理石の柱頭が載せてある。アカンサスの葉をモチーフにしたコリント式よりも複雑だ。
そしてさっきから気になっていた、あまり古くなさそうな建物が正面に見えてきた。あの前に⑲楕円の噴水がある泉水堂ニンフェウム(Ninfeo)がある。その西に並んでいる遺構が迎賓の間。
この柱廊部を通って見に行けそうなのに、素通りしてしまった。
道の西側は柵があって入り込めない。迎賓の間とは壁を隔てているが、こちらにも部屋のような建物があったらしい。
柵の外側をのぞきこむと地下部分が見えた。この通路は白石のテッセラ(tessera、小さな切石、構成する物の形にもよるが、多くは正方形に近い形)が並んでいる。目を凝らすと、黒い長方形が見えてきた。白地に黒いテッセラを何列か直線に並べてあるだけの簡素なものだが、舗床モザイクに違いない。
その北側は大理石の列柱廊(⑯の西側)となっている。王の間だけあって、大理石の柱が並んでいたらしく、その残骸が並べてあった。ここ柱頭は何種類かあるようだが、コリント式のアカンサスの葉だけというのではなく、いろんな要素で構成されているようだ。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)
ドムス・フラウィアは、⑰八角形の遺構の他に、南の⑱食堂(トリクリニウム、Triclinio della Domus Flavia)と北の⑮アウラ・レギア(王の間、Aula Regia)と⑬その前廊部分、その西の⑯通称バシリカ(Basilica、地下はイシスの間 Aula Isiaca)、東の⑭通称ララリウム(c.d. Laralium、地下はグリュプスの家)泉水堂(ニンフェウム Ninfeo)がある。
⑰ペリスティリウム(Peristilip della Domus Flavia、柱廊に囲まれた中庭)の中心部は、あまりにも平たいので何重かの八角形くらいにしかわからない。
そんな時はグ-グルアースで真上から見るのが一番。柱廊の柱跡が四角く並んでいる。
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『ROMA』は、この巨大な宮殿は、ドミティアヌス帝が建築家ラビリウスに命じ、すでに存在していた建造物を取りこみながら81年から96年にかけて建てられた。迎賓の空間として、公務用のドームス・フラーヴィア(Domus Flavia)と中にスタディウムもある私的空間としてのドームス・アウグスターナとに分けるのが通常である。ドームス・フラーヴィアの現在の入口は、長方形のペリスティルム(列柱廊)として形作られた巨大なアトリウム(玄関ホール)に入ることができ、その中央にはかつて迷路模様で飾られた噴水であった八角形の水盤があり、いくつかある迎賓の間は噴水に面していたという。
グ-グルアースでは、柱廊の西側にはそのような部屋跡が並んでいるのが見える。
これくらいの高さから見ると、八角形の中が迷路状に仕切られていることや、それを列柱廊が巡り、そしてその外側に迎賓の間が並んでいた様子が理解できる。
(後に通った④ネロの地下通廊にあった写真)
アトリウムから北に行くと⑮王の間跡は草が生えているだけだが、立ち入り禁止になっていた。
その東⑭のところはCASA DEI GRIFIと表示があり、立ち入り禁止。ここは地上にはララリウム、地下にはグリュプスの家があるらしいのだが。
視界が開けたと思ったら、アトリウムの北側に来ていた。ずっと南の方に⑱食堂の遺構があるのだが、どこから行けば良いのかわからない。
⑮王の間の南端には周囲の弧を描いた遺構があった。王の間の平面は楕円に近かったようだ。
上には大理石の柱頭が載せてある。アカンサスの葉をモチーフにしたコリント式よりも複雑だ。
そしてさっきから気になっていた、あまり古くなさそうな建物が正面に見えてきた。あの前に⑲楕円の噴水がある泉水堂ニンフェウム(Ninfeo)がある。その西に並んでいる遺構が迎賓の間。
この柱廊部を通って見に行けそうなのに、素通りしてしまった。
道の西側は柵があって入り込めない。迎賓の間とは壁を隔てているが、こちらにも部屋のような建物があったらしい。
柵の外側をのぞきこむと地下部分が見えた。この通路は白石のテッセラ(tessera、小さな切石、構成する物の形にもよるが、多くは正方形に近い形)が並んでいる。目を凝らすと、黒い長方形が見えてきた。白地に黒いテッセラを何列か直線に並べてあるだけの簡素なものだが、舗床モザイクに違いない。
その北側は大理石の列柱廊(⑯の西側)となっている。王の間だけあって、大理石の柱が並んでいたらしく、その残骸が並べてあった。ここ柱頭は何種類かあるようだが、コリント式のアカンサスの葉だけというのではなく、いろんな要素で構成されているようだ。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)
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