お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2010年12月27日月曜日

2-10 パラティーノの丘、ロムルスの家

⑪アウグストゥスの家の南西方向にも屋根の架かったところがある。あれが⑦ロムルスの家かも。そして、その向こうに見える塔は「真実の口(Bocca della Verita)」で有名なサンタ・マリア・イン・コスメディン(Santa Maria in Cosmedin)教会のもの。いつの間にかチルコ・マッシモ(Circo Massimo)の西の端まできていた。
柵があるため、ロムルスの家には直接行くことができない。⑩リウィアの家(Casa di Livia)の西にあるスロープを下って遠回りする。
リウィアの家の向かいには井戸のようなものがある。⑧古井戸跡(Cisterna arcaica)だ。ここも屋根がかかっているが、『ローマ古代散歩』は、王政期の遺構には屋根がかけられているという。王政期とは、伝承では前763年に初代ローマ王ロムルスが建国し、前510年(または前509年)に第7代の王が追放されるまで(Wikipediaより)らしい。
リウィアの家前のスロープを下りていくと、想像していたよりも大きな井戸があった。向こうの屋根の下にロムルスの家があるらしい。
井戸を過ぎて、修復中の⑨大地母神キュベレー神殿(Tempio di Magna Mater)の脇からロムルスの家方向に回り込む。東側の屋根のある遺構は何だろう。
遠くに白く博物館が見える。左の四角い建物は⑪リウィアの家、そして、その南、こちらからは正面にある白い屋根の架かったところが⑩アウグストゥスの家だろう。
アウグストゥスの家らしきものは、その下の屋根まで続いているらしい。
しかし、今は⑦ロムルスの家を探さないと。この石積みの四角い遺構は何だろう。
それに続く遺構。まったくわからない。
大きな屋根の下の遺構はまだまだ続いている。
『ROMA』には、鉄器時代の小屋としてこのような掘っ立て柱の穴のある場所を挙げている。
ある伝説によると、ヘラクレスと、その後にアイアネスが、パラティーノの丘でギリシャからの移民集団を見つけたという。南イタリアが植民地となる以前から、ギリシャの船乗りや商人たちがすでにいたことが、最近の発掘調査で確認されている。鉄器時代の小屋の発見は、ロムルスによる建国物語をも証明しているようだという。
大きな屋根の下の遺構はギリシャ人たちの暮らしの跡のようだ。そして、その遺構の中にロムルスの家(Fondi di capanne)とされた小屋の掘っ立て柱の穴を見つけた(上写真の矢印)。
それはこのような小屋だったと、構内の博物館に模型で示されているらしい。⑳博物館で見逃したらしい。
このような古い一角の北側にもアーチ列がある。⑤ティベリウス宮殿(Domus Tiberiana)の小部屋と呼ばれる遺構だ。
ティベリウス宮殿跡は、広大なファルネーゼ庭園(Orto Farnesiani)が広がっていて、その北西端からフォロ・ロマーノを見下ろすことができるらしい。人が向こうの石段を通って庭園の方に行くので、我々も石段を登りかけたが、こちらから行くと④ネロの地下通廊(Criptoportico Neroniano)を通れなくなるので引き返した。
⑩リウィアの家の北側を通ってネロの地下通廊へ。

※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)