お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2010年12月22日水曜日
2-5 パラティーノの丘、ドムス・アウグスターナ
スタディウムからドムス・アウグスターナへ向かう。
『ローマ古代散歩』は、64年の大火で消失したパラティーノに、ドミティアヌス帝は建築家ラビリウスの計画により、丘をおおい尽くすような皇帝宮殿を建てたのである。皇帝宮殿は西の公邸部分ドムス・フラウィア(ドミティアヌスの氏族名フラウィウスにちなむ)、中央の私邸部分ドムス・アウグスターナ、東のスタディウムからなっているという。
白っぽく見えているのは大理石の舗床モザイク。オプス・セクティレ(opus sectile)という。
しかし、こちらの方はどのような文様かまったくわからなかった。
地図で確かめると、㉔の数字の左から上の遺構の横を通って㉒へ。
北東の隅から見下ろすと、不思議な形をした花壇のようなものがあった。
私邸部分のドムス・アウグスターナは、中央に小神殿をもつ池のある上階のペリスティリウム(Peristilio inferiore della DOMUS AUGUSTANA、回廊)を囲む部分と、アマゾン族の楯(ペルタ)をモチーフにした四角い噴水をもつ下階のペリスティリウムを囲う小さな部屋部屋からなっていたという。
これが下階のペリスティリウムで、花壇ではなく噴水設備だった。
北西側から見るとこんな感じ、だったらしい。
『ROMA』は、私邸と考えられるアパート形式に仕切られた家がいくつかあるという。
その南側にはいろんな形の基壇のようなものが残っている。
南端まで行って見下ろす。これが㉓弓なりの列柱テラス(Esedra colonnata)で、その向こうにチルコ・マッシモがある。
『ROMA』は、宮殿の南側にあるエクセドラからは下にあるチルコ・マッシモ(大競技場)が見え、エクセドラにいる皇帝にチルコ・マッシモの観衆が喝采を送れるしくみになっていたという。
Google mapで見ると、その「弓なり」がよくわかる。
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この辺りも見学路が複雑だ。そして下をのぞくとこのようなアーチ列になっていたりする。これもテラスの高さをそろえるためのものだろうか。
柵のおかげで、ペリスティリウムの周囲を回りながら、この建物にも出たり入ったりを繰り返した。そろそろ建物を通って外に出たい。
中央の大アーチ門のような所に出土物らしい浮彫板が飾ってあったが、立入禁止になっているので、正面にいくことができない。
円柱のようなものを間にして向かい合う鳥グリフィン。高浮彫で、表現がまだ様式化されず、勢いがある。
そしてこれが高いアーチ門。ここには刳り型は見られなかった。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)