お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年3月15日火曜日

2 奥の庭に泉水堂(nicchie dei ninfei)があるかも

ポンペイは広いが見所は西半分に集中している。
アボンダンツァ通(Via del’Abbondanza)を④フォロ(Foro)に向かって歩いている時、共同水道のある四つ角に出た。豊穣の女神の浮彫があった。
幾つかある共同水道は、当時は栓も蛇口もなかったので、口から常に水が流れ出ていた。このような水の出る箇所の像はそれぞれ異なっていたので、目印にもなって、自分が今どこにいるのかがわかった、とガイドさんの説明。
『ポンペイの遺産』は、自宅に水道を引けない庶民や、道行く人々がいつでも利用できるように設けられたのが共同水道である。水不足になってもここの水は絶やされることなく、水槽には個性的な浮彫が施され、大切に守られていたという。
矢印の家屋の中をのぞいたら、壁画が残っていた。赤や黒で描かれた第3様式(装飾様式、前25-後35)か第4様式(幻想的様式、25-79)の壁画だろう。
壁画が剝がれたところには、丸い石で造った壁体が露出しているようでもあるが、丸い石を積み重ねたと見えるような壁画だったようにも見える。
北側の何軒目かの家で、玄関の舗床モザイクを見つけた(地図の101あたり)。
玄関のモザイクは番犬ばかりかと思っていたが、それぞれの好みがあったようだ。
通路の床には、このような白と黒の石を用いたようで、ローマのパラティーノの丘(Palatino)のネロの地下通廊(Criptoportico Neroniano)では、両端に黒い線だけのある簡素なものだったが、個人の邸宅の玄関には凝った文様が表されていたようだ。
一般的なポンペイの邸宅同様、この家も玄関の奥にはアトリウムになっていて、中央に水槽がある。天井部分は、四方から片流れの屋根が付けられていて、雨水がこの中落ちて、水槽に溜まる仕組みになっていた。
このように玄関の続きにアトリウムがあるという構造は、キリスト教会にも引き継がれていく。その時には中央には広い空間が設けられ、屋根付きの柱廊が四方を巡るようになった。
キリスト教会のアトリウムについてはこちら
その奥にも部屋があるのだろろうが、ちょうど鉄格子に隠れている。しかし、最奥部には立派な円柱が立っていて、円柱で囲まれたところが庭になっていたことが入口からでも伺える。残念なことに、シュロのような植物があるので、泉水堂があるかどうかがわからない。
その後は右に⑧エウマキアの建物の長い壁を見ながら歩いて行く。
ここで馬車は行き止まり、フォロはもうすぐ(矢印)。
アボンダンツァ通を振り返ると、もう遠くに小さくなってしまった共同水道に他の観光客たちが群がっていた。

※参考文献
「ポンペイの遺産 2000年前のローマ人の暮らし」(青柳正規監修 1999年 小学館)
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)