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やっとアナトリアの遺跡巡りを開始しました。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2026年2月6日金曜日

アンカラ アスランハネジャミイとアンカラ城


アナトリア文明博物館からアスランハネジャミイへ向かった。
❶アナトリア文明博物館 ❷アスランハネジャミイAhi Şerafettin (Aslanhane) Camii ❸アスランハネ墓地 Aslanhane Camii Haziresi ❹アスランハネの墓廟 Ahi Şerafettin Türbesi ❺アンカラ城門と時計台 Ankara Kale Kapısı ve Saat Kulesi ❻アンカラ城 Ankara Kalesi

『世界歴史の旅 トルコ』(以下『世界歴史の旅』)は、アルスランハネ・ジャミイの周辺には、農耕具, 羊飼いのフェルト製のマントなど、アンカラ近郊の農家相手の雑貨屋が並んでいる。もっとも古きアンカラの雰囲気を残している地区であるという。
現在では土産物屋が多いようだが、大村幸弘氏の言うとおり良い雰囲気の家並みの地区だ。

坂の上を見上げると崩壊寸前の家屋が。これを見ると、フランスでコロンバージュと呼ばれる木組みの家屋のように、木材の間にレンガで壁を埋め、外に漆喰を塗っている。


❷アスランハネジャミイに近づくと現れたミナレットはこれまで見てきた形とは違うのだった。
説教壇の扉に刻まれたスルス体の碑文は、正面入口の東側に隣接するミナレットは、再利用された石材で作られた基部、レンガの台座、円筒形の胴体、そして八角形の円錐形のドームで構成されているという。

ミナレットの巨大な基壇とその隣の大理石のファサード。

İSLAM ANİSKLOPEDİSİ の AHÎ ŞERAFEDDİN CAMİİ は、木製の説教壇に刻まれた最初の碑文には、セルジューク朝のスルタン、メスード・ビン・ケイカヴス(メスード二世)の治世下、アヒ兄弟によって689年(1290年)に建立されたと記されているが、実際にはそれよりも古いという説もある。正面玄関横の別の碑文には、建立者として「セイフェッディン」の名が記されているが、これを「シェラフェッディン」と読む研究者もいる。これはエミール・セイフェッディン・チャシュニギルの名である可能性があり、建物の建設時期は13世紀初頭にまで遡ることができる。多くの研究者は、同世紀末に荒廃していたモスクを、フッサメディンとハサンという二人のアヒ兄弟が修復し、ミフラーブもこの時期に建てられたという点で一致しているという。
それは修復された時で、
上から見ると正方形平面で宝形造りのような屋根に見えるが、長方形なら創建時はこんな屋根ではなかっただろう。

東壁
形の整わない石材の層の間に木材が挟まっている。

ミナレット(トルコ語ではミナーレ)


タイルが貴重だった頃、ミナレットにまずタイルが使われた。しかもほんの少し。

これがオリジナルか補修タイルかは不明だけれど。

正方形平面からトルコ三角形を介して八角形が導かれた、スキンチでもペンデンティブでもないトルコ独特のもの。

この大きな基壇の内部はどうなっているのだろう。

『世界歴史の旅』は、アンカラではもっとも古いモスク。モスクの入り口、壁には周辺のローマ、ビザンツ時代の遺跡から運んできた石材が多用されているという。

上は矩形の中に円を入れた複雑な構成を二重の組紐文で繰り広げている。


ファサードは白い大理石に簡素なムカルナス

白い大理石はローマ時代の遺構から集めた形の揃わないものを積み上げている。8段のムカルナスは別の石材だろうか。



ムカルナスの下からモスク内に入るのかと思ったら、右手に回り東側の入口から入った。


İSLAM ANİSKLOPEDİSİ  の AHÎ ŞERAFEDDİN CAMİİ は、このモスクは、アンカラだけでなくアナトリア全体の本来の特徴と貴重な要素を今日まで保存している、トルコ建築の中でも最も貴重な建造物の一つという。
入った正面が女性用マッフィルだった。中央の低い仕切りはムアッジン用マッフィルだろう。
柱の上部に木製のムカルナスを取り付けて柱頭としている。

上階のマッフィルには王族専用だったのかな。

下は女性用。


中央の通路の天井は他の通路より高くなっている。しかも3段に持ち送っている。
碑文は、五つの縦方向の側廊を持つバシリカ式の平面。中央の側廊は側廊よりわずかに高く、幅も広くなっているという。
アンカラに五廊式バシリカの教会堂があってそれを参考に造ったのだろうか。

こういう風に写すと教会でいう身廊が側廊よりもかなり高いように見える。


ミフラーブを見つけてミンバル(説教壇)に注意を払わなかったため、円柱に隠れたままだった。


左側廊
これだけ柱が多いと大きなランプを吊せないので、あちこちに小さなモスクランプが下がっている。

右の側廊
柱の長さに合わせてローマ時代やビザンティン帝国時代の大理石の柱頭を再利用している。

何故か斜めになってしまったミフラーブは、モザイクタイルと漆喰装飾が素晴らしい。

モザイクタイルだけではない、白い浮彫の装飾も。

そして向こうのミンバルにはキュンデカリの細工が。

モザイクタイルやキュンデカリの装飾については後日忘れへんうちににて


モスクを創建したアヒ兄弟の墓廟の入口
扉が閉まっているので入れないが、軒の木材ががっしりとしていて立派だった。最初はローマ時代の白い大理石の円柱や欠片が再利用されていることが目立ったが、この方向から見ることができて良かった。

上を見上げると❻アンカラ城が青空にくっきりと浮かんでいた。

❹アヒ・シェラディンの墓廟 Ahi Şerafettin Türbesi 発見。
 AHÎ ŞERAFEDDİN CAMİİ は、修復したフッサメディンとハサンという二人のアヒ兄弟がアヒ・シェラフェッディン(1350-1351年没)の父と叔父の墓廟であるという。

正方形平面からおそらくスキンチで八角形に導きそのまま高さのある八角形の屋根(これもドームという?)がのっている。ここから見た限りでは八角形の屋根とその下部構造とは同じくらいの高さ。鄙びていてええ感じ。八角ドームはかなり歪みが生じているけれど。
それにしても、正方形平面から八角形のドームを架構した墓廟は他にあっただろうか?円形または円形に近い多角形の胴部に円錐ドームがのっているのはキュンベット Kümbet と呼ぶが、この廟はテュルベ türbe とされている。イスタンブールのモスクに付設された墓廟はドームがのっていてテュルベと呼ばれている。
それについては覚えていれば後日忘れへんうちににて


少し歩くと❺アンカラ城の門 左の監視塔の上には時計台
『世界歴史の旅』は、アンカラ城の近くに1996年におこなわれた考古学の発掘現場がある。下町の再建計画をもとに旧市街の一部をとりはずしている最中に遺跡が確認された。アナトリア文明博物館が発掘調査をおこない、前8世紀の鉄器時代の彩文土器をはじめ、多くの遺物が出土したという。
彩文土器なのでフリギア時代の遺跡。そう言えばアナトリア文明博物館にはアンカラ近郊の遺跡の出土品が展示されていたので、ここの出土品もあったかも。

『世界歴史の旅』は、ビザンツ時代に築かれたといわれるという。

狭い通りが枝分かれして複雑な上に、一階より二階が通り側に出て、三階は更に出るというトルコ風の家屋がぎっしりと続いている。


城壁が見えてきた。下の方と上部では石材の色が違うので、時代が異なるのかも。とはいえ、下の方は転用材が多く、上の茶色い石材は形が揃っている。

円柱や石棺などが使われている。

その壁面の裏側へ回り、左の通路へ。

アーチから新しいながらトルコの民家らしい落ち着いた建物を見て、

複雑に入り組んだ城壁や監視塔

その外を回り込んで、

その後も右折左折を繰り返して、

こんなに出っ張った二階、落ちてきそう。

そうかと思えば、こんなに狭い距離しかない向かい合わせの建物も。

両側の建物が城壁に密着していて、下の狭い開口部を出て、


階段を上るとアンカラ城の上に出た。南方には新しい住宅が続いている。




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参考サイト

参考文献
「トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「世界歴史の旅 トルコ」 大村幸弘・大村次郷 2000年 山川出版社

参考にしたもの
アルスランハネジャミイの説教壇の碑文