お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2008年5月14日水曜日
1日目-6 文武大王陵(ムンムテワンヌン 문무대왕)
感恩寺の向こうには大鐘川(テジョンチョン 대종천)が流れている。ほとんど流れがなかったが、『図説韓国の歴史』によると、感恩寺創建当時(682年)は寺の前に船着場があり、海中陵とつながっていたとされるのだそうだ。1300年もの年月で川底は低くなり、流れが遠くにいってしまったというわけや。海に向かうとすぐに橋を渡ることになる。もう海が見えてきた。この海を日本では日本海と呼んでいるが、慶州では東海というらしい。感恩寺から甘浦海岸まで徒歩で15分くらいらしいがタクシーなのですぐに着いた。これが文武王陵とされている岩。海鳥がたくさん群がっている。この旅で大変参考になった『慶州で2000年を歩く』の著者武井一氏のサイト慶州へ行こうに竜の寺、新羅・感恩寺というページがある。それによるとこの岩は沖合200mにあるらしい。武井氏の文武大王(문무대왕)海中王陵によると、島には十字に水路が掘られ、その中央に甕らしいものがあるらしい。パネルの絵には十字の中央に石のようなものが描かれている。
説明パネルに短い日本語の解説が付けられていた。三国統一の偉業を成し遂げた新羅の文武大王(661~681)の死後、東海の竜になり倭敵から東海を守ると言う遺言に従って築造した水中陵で、またその名を大王岩とも言う。このような水中王陵は世界でも類例のない特異なものであるということだ。明括山城で日本軍が敗退した後も度々倭国はやってきたんやね。
武井氏はまた、このようなために、海中王陵に向かい一晩中祈りを捧げるムーダンなどの人々を見ることができる。また、島には上陸できないが、そばをモーターボートでまわることはできるということで、『図説』によると、ムーダンは巫堂と書き、女シャーマンのことらしい。我々が行った時はそのような人はいなかったが、武井氏のページにはその写真もある。パノラマ岩の上を飛ぶ鳥までピントが合っていますが、そこまで大きく画面に出るかどうか。海中陵の陸側は奉吉里(ボンギルリ)海水浴場。海水浴にはまだ早いけど人が絶えないのはやっぱり文武王陵を見るためかなあ。デベラが干してあるねこんな生け簀がある店がたくさん並んでいた。
このあたりの店で食べてもよかったね
タクシーを待たせてなかったらねスルメも売っていた。そして海苔やワカメも。石の重しがおもしろい。旅は始まったばかり。安いのだろうが、持ち回る気にはなれへんかった。
※参考文献
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)
※参考サイト
慶州へ行こうの竜の寺、新羅・感恩寺・文武大王(문무대왕)海中王陵