➓アラジャホユック博物館と❾ライトレール車両と線路(アラジャ・ホユック発掘調査の初期段階で土砂を運搬するために使用された。1936年にアタテュルク大統領の命により、公共事業省からアラジャ・ホユックに供与された最初の30両の運搬用具 説明パネルより)
説明パネルは、ピトス(Pithos)は、考古学用語において大型のテラコッタ製貯蔵容器を指すギリシア語。油、ワイン、酢などの液体、あるいは穀物、果物、野菜などの固形食料を貯蔵するためにしばしば使用された。
ピトスは通常、縁まで地面に埋められていた。その大きさは一般的に人間の身長ほどか、あるいはそれよりもはるかに大きいという。
保存するものによって大きさが異なっていたのだろう。
クレタ島のクノッソス宮殿にあったのも大きな甕だった。それにクノッソス宮殿の甕よりも薄造り。
左端の白い甕が気になる。土器に違いないが、こんなに白く焼き上がった土器は見たことがない。これはいったい?
博物館の玄関前にもアラジャホユック遺跡 Google Earth より
❶ヒッタイト時代のスフィンクス門 ❷初期青銅器時代の王墓群 ❸小神殿 ❹西門と洞道 ❺休憩所 ❻金属工房 ❼貯蔵庫 ❽神殿 ❾ライトレール車両 ➓博物館
アラジャホユック遺跡のジオラマ。右下が❶スフィンクス門
❶スフィンクス門にはスフィンクスの浮彫がないが、❹西門の洞道が半円アーチではなく持送りの三角形状だったのに比べると尖っていない。、左右から大きな石を合わせて曲線風にしている。
また、オルトスタット(腰壁)ではなく、石積みの基礎に日干しレンガを積み上げて監視塔を造っている。また、丸太の小口が並んでいるのは、日干しレンガはアーチ状にしないと天井はつくれないので、その技術がない時代は、丸太の梁を通して板張りの天井(上階の床)にしていたのだろう。
それは、サントリーニ島の古代遺跡アクロティリで見学したS聖所が、上階の部屋の床は、太い横木を等間隔に渡した上にこれと直交するように細い葦を並べ、厚い粘土で床を張って、その上に平らな石を敷きつめるという入念な作り(『図説ギリシア』より)という構造と似たものだったのだろう。
❷初期青銅器時代の王墓群
説明パネルは、これらの石壁で囲まれた長方形の墓は、木の板で屋根が葺かれ、埋葬後に粘土質の土で塗り固められた。後に、葬儀の一環として、犠牲に捧げられた動物の頭蓋骨や長骨が木の屋根の上に並べられた。墓の中では、死者の頭部は西向き、顔は南向きに据えられていたという。
小屋組の屋根ではなく、平らな板で覆われていたようだ。牡牛の頭蓋骨が並んでいる側が西。
発掘時の王墓Hの状況(現在見学できる王墓とは異なっている)
王墓群の近くには❸小神殿、向こうには❶スフィンクス門から続く王宮?❸小神殿の左方にあるのは❹洞道のある西門
短時間で出土品とその説明パネルを写したため、見落としもあるので、時代が異なっている可能性があります。
初期青銅器時代
『古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ』(以下『古代都市1』)は、アラジャフユクの発掘が開始されてまもなく、銅石器時代にまでさかのぼる四つの文化層が発見された。古い順から銅石器時代、初期青銅器時代、ヒッタイト時代、そしてフリギア時代である。特に初期青銅器時代(前3000-2000年)の層からは当時の暮らしの豊かさ、高度な文化水準を示すみごとな遺物が多数発見されているという。
説明パネルは、後期金石併用時代以降、前4000年末頃からアナトリアは社会、文化、政治のあらゆる面で発展を遂げ始めた。人々は農業や牧畜だけでなく、交易や鉱物加工においても大きな進歩を遂げた。この時代には銅とヒ素、あるいは銅と錫の合金である青銅が鉱物加工に広く用いられたことから、「初期青銅器時代」と呼ばれている。発掘調査によって発見された集落跡からは、この時代の人々が城壁に囲まれた都市に住み、地元の首長によって統治されていたことがわかる。この時代、アナトリアではまだ文字は発明されていなかったという。
黒い土器が多い。
重りまたは分銅
各戸の部屋に焼き窯のようなものがあり、部屋の真ん中には炉がある。壁は平たい日干しレンガを積み、土が塗られている。
そういえばチョルム考古学博物館に展示されていた初期青銅器時代(前3000-2000年頃)の土器も黒かった。形はちょっと違うけれど。
高坏や骨製の道具類初期青銅器時代の出土品
土器
説明パネルは、アラジャホユックの前期青銅器時代の土器は、後期銅石器時代の継続として特徴づけられる。前期青銅器時代Iのアラジャホユックの土器は、籾殻を混ぜ込み、黒色の粘土を用いた手捻り。主な器種は鍋、フライパン、果物入れである。
前期青銅器時代II(前 3100- 2700)のアラジャホユックの土器は、黒、灰色、または赤色の粘土で作られ、赤色の泥漿が内側に塗られている場合もあれば、外側に塗られている場合もある。
前期青銅器時代III(前2700-2300)には、手作業またはろくろで作られ、単色、赤、ベージュ、茶色、黒色の泥漿がかけられている。この時代を特徴づける土器は、手作業で作られたベージュ色の泥漿をかけた土器で、濃い赤と茶色の幾何学模様が描かれている。注口のある土器もこの時代に発見されているという。
土製品 前期青銅器時代Ⅲ
大きな甕は水や酒を混ぜるためのクラテルだろうか。小さめカップにも把手がついている。
下の黒いものは何だろう? 二つの四角いものはタイルのように大きさが整えられていて、その上斜格子文が刻まれている。
土製品
説明パネルは、初期青銅器時代において、女性は生命の継続性と豊かさの神聖な象徴として、様々な形でその役割を担った。前3千年紀には、アナトリアのほぼすべての地域で女性像が制作されたという事実が、その証拠である。このような描写は、石、大理石、金属、骨、特にテラコッタなどの素材で作られた、立体的な小像、様式化された人形、または非常に抽象的で偶像のような女性の描写で構成されているという。
土製品
ずんぐりした耳付きの壺や抹茶碗のような鉢も。
紡錘車?
説明パネルは、装飾としては爪や道具による絵付けがよく見られる。赤色の泥漿で絵付けされたものは、アラジャホユックで非常に多く発見されているという。
双耳坏 初期青銅器時代 前2250 - 2000年(前3000年の第4四半期)
説明パネルは、双耳坏は、古期青銅器時代に西アナトリア地方のトロイの発掘調査中に初めて発見され、この都市の発掘者である H. シュリーマンによって、ホメロスの偉大な叙事詩 (オデュッセイア)に登場する両手持ちの飲み物用の容器である可能性から、「デパス アンフィキュペロン」と命名された。これは、ホメロスが『オデュッセイア』の中で描写している両手持ちの杯に類似していると考えられているため。
西アナトリア地方で非常に一般的であったこの形状は、特に初期青銅器時代の年代測定に用いられる重要な遺物の一つ。双耳坏は、初期青銅器時代IIおよびIIIにおいて、エーゲ海地域からバルカン半島、アナトリア、北シリアに至る広い地域で広く使用されており、文化交流を通じて中央アナトリアおよび北部アナトリアでも知られている。初期のアラジャホユック遺跡の発掘調査の双耳坏は、中央アナトリアおよび北部アナトリアの地元の工房で製造され、前3000年の第4四半期に遡ると考えられているという。
鋳型 初期青銅器時代 石製
牡牛頭部 青銅製 初期青銅器時代
背後のスタンダードとはかなり違って簡素なつくり。きっとこちらの方が古いのだろう。
ヒッタイト時代(前1650-1200)の出土品
ずんぐりしているが注口のある水差しから嘴付き水差しになってきた。
日本の焙烙のようにものを煎る道具のよう。
扁平な壺のつくりかた
①轆轤の中心に土を置く ②浅い碗状のものをつくり ③径を広げて外す ④同じ形のものを合わせる ⑤首をつけ ⑥把手をつける
この壺はチョルム考古学博物館で見た扁壺よりも丸みがある。産地による違いだろう。
脚部が極端にすぼまった注口付き水差し
フリギア時代 (鉄器時代、前1150-500)の出土品
フリギア人について説明パネルは、ヘロドトスやストラボンといった古代の著述家によれば、ヨーロッパに定住したフリギア人は、マケドニアとトラキアから海峡を通ってアナトリアに移住したトラキア人の部族の一つであり、ブリギア人またはブリグスと呼ばれていた。
西洋の古代史料によると、フリギア王国の初代王はゴルディオスであり、首都(ゴルディオン)は彼の名にちなんで名付けられた。ゴルディオスの後を継いだのは息子のミダスであった。また、同じ史料によると、ミダス王はキンメリア人の侵略者に敗北したことに耐えかね、雄牛の血を飲んで自殺したとされているという。
建物の装飾
チョルム考古学博物館に同じ絵や出土品があって、写真に撮っただけに終わっていたのが、後日思わぬところで再開し、理解が進んだ。
鐙瓦 浅浮彫と彩色
向かい合う鳥グリフィン
壁飾り 土製 浅浮彫と彩色
向かい合って生命の樹に寄りかかる草食獣
金製ガゼル装飾杯(前1000年頃 ギーラーン州出土 イラン国立博物館蔵)にも見られるモティーフだが、もっと以前にもあったはず。
鐙瓦の下に並んでいる丸い盾と槍を持つ兵士の断片も。
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参考にしたもの
館内の説明パネル
参考文献
「古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ」(日本語版)2013年 URANUS
「図説ギリシア」 周藤芳幸 1997年 河出書房新社
















































