説明パネルは、この門は、都市の要塞の南西に位置している。両側に二つの見張り塔があり、内側と外側にそれぞれ放物線状の出入口があるという。
Aライオン門内側 Bライオン門外側 C北見張り塔 D南見張り塔 E斜め石積みの法面 Google Earth より
かつては、記念碑の内部に通じる一対の木製扉が備えられていたという。
外側の出入口の両側には、巨大な石材から二頭のライオンの前部が彫られているという。
Cの見張り塔外側城壁とライオン像
D同南側
E城壁の外側の乱雑な石積みとその下部に斜めの石積み
外側で敵を威嚇するためのライオンではなく、『古代都市Ⅰ ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ』(以下『古代都市Ⅰ』)は、威嚇するように口を大きくあけたライオンには、悪霊が城内に入るのを防ぎ、町を守る役割があった。城壁の外から見て左側のライオンの頭部は破損がひどく、最近修復を施されたという。
実際にこんな風に石を積んで復元されていた頃があったとは。
説明パネルは、開いた口と睨みつける目は、元々は別の素材で象嵌されていたが、ヒッタイトやメソポタミアの建築でよく知られたモチーフであり、防御機能を果たしている。ライオンの頭部は発見される前に破損していたが、現在は復元されているという。
同書は、右側のライオンはオリジナルのままの完全な状態と言えよう。どっしりと重量感のある体躯、たてがみや胸毛、顔に彫られた線刻のヒゲ、象嵌細工の目など精巧かつ芸術的表現に驚かされる。この門は前14世紀初期の建設と推定されるが、その当時のヒッタイト彫刻の特徴、技巧のすべてがここに表れているという。
やっぱり目は彫り込んだ穴だけではなかった。何を象嵌していたのだろう。
その後バスで移動中に眺めた神殿群
昔は突撃門と言われていて、確か兵士たちが常駐して、敵が攻めてきた時にはここから出て応戦したと言われてきたが、今では否定されている。
上を見上げると中央右よりにポツンとあるのがスフィンクスの一体。
説明パネルは、高さ約 30 m、長さ 250m、基礎部分の幅 80mの人工の土手が、都市の要塞の南端を形成している。市壁は土手の上に沿って走り、中央でスフィンクス門が途切れている。門の真下には小門があり、大きな岩を積み上げて築かれた 70mのトンネルで、その上に土手が積み上げられた(イェルカプとは「地面の扉」を意味する)。イェルカプの城壁は都市の最も高い場所にあり、外側のデザインからわかるように、その機能は防御というよりも象徴的なものであったと考えられるという。
下図のように洞道はかなりの傾斜があるが、歩いていて下り坂だとは気付かなかった。
門の左側は石を積み重ねた斜面。
説明パネルは、人工的に築かれたエルカプの外壁は、角が整えられた石畳で覆われており、まるでピラミッド型の頂部を思わせる様相を呈していた。この石畳は、後の再建工事の際に部分的に撤去された。堤防前面の窪みは、盛土の大部分が使用された場所であり、その雄大な景観をさらに際立たせている。この部分の高低差は35m。西端と東端には、堤防の頂上まで続く階段がある。トンネルの出口は扉で閉じられていた。城壁を攻撃する敵の背後に回り込もうとする兵士のための秘密の出口という解釈は、扉が隠されていないことから説得力に欠ける。むしろ、儀式用のもの、もしくは平時に街へ容易に出入りするための手段として作られた可能性が高いと考えられるという。
右側も石積みの斜面になっていてその先へと向かっていると、
下を見たらのんびりと草を食む牛さんたち、
そして下側も石積みの斜面になっていた。石材は近くにあるようだし。
端までいくと階段があるはずなのだが、どこ?
上には低いが城壁が続いていて、
その中央にスフィンクス門がある。
説明パネルは、スフィンクス門は、城壁の中央に位置している。ライオン門や王の門とは異なり、この門は両側に見張り塔が設けられておらず、下層階へと続いている。外側の出入口にのみ一対の木製扉が設けられていた。四つの扉枠すべてにスフィンクスの彫刻が施されており、西側のスフィンクスは胸部と頭部が損傷しているものの現存しており、東側のスフィンクスは失われているという。
左の石の塊がスフィンクスだったとは。右側は消失し、内側の白いスフィンクス(レプリカ)は内側に向いている。
説明パネルは、内側の出入口は、ほぼ立体的なスフィンクスで飾られていた。街に向かって正面を向くスフィンクスの姿だけでなく、側面には高い翼があり、長く垂直に伸びた尾も備えていた。古代の火災で大きな被害を受けたため、1907年に修復のため解体された。2011年まではイスタンブール博物館とベルリン博物館に収蔵されていたが、2011年11月26日より、ボアズカレ博物館に展示されている。レプリカが元の場所に設置されているという。
『古代都市Ⅰ』は、頭部は人間、身体はライオンというスフィンクスを、ヒッタイト人はエジプトから学んだらしい。エジプトではスフィンクスは王を象徴する姿とされていたが、ヒッタイトでは女性的で優美なスフィンクス像が好まれたらしい。この城門のスフィンクスも翼を持ち、尾の先端を立てた姿で描かれ、その表情、特に眼は優しく女性的で、頭にも長く編んだ髪を垂らしているという。
外側に残っている風化したスフィンクスは他の岩と同じような色だが、内側の本物は白っぽい岩で造られていて、レプリカもそれに倣ったものだった。
新しいのにもうこんなに劣化してしまったのかと思ったが、風化した現状に仕上げてあるのだった。
右側にも何かの施設があったようだ。
❶洞道の入口 ❷各所に見張り塔がある城壁 ❸洞道の出口 ❹階段 ❺上のスフィンクス門 ❻上の町の神殿群 ❼ライオン門へ ❽王の門へ ❾No.3の宮殿 ➓No.2の神殿 ⓫No.5の神殿 ⓬南要塞 ⓭ブユクカレ(王宮)
❻の神殿群だけでなくこの辺りは神殿だらけ。
『古代都市Ⅰ』は、諸国を相次いで征服したヒッタイトそれらの国の神々の怒りや復讐を恐れたらしい。ヒッタイト民族はもともと宗教的に寛大であったらしく、異国の神々供物もおろそかにせず、祈りを捧げて自国に連れ帰り、ヒッタイトの神々の中に迎え入れた。首都ハットゥシャにはそれらの神々を祀る数多くの神殿が建設された。ハットゥシャは帝国の行政の中心であるばかりではなく、宗教の中心都市でもあったのである。
前13世紀、イェルカプの北側の広大な土地には24もの神殿が建てられ、神殿地区ともいうべき様相を示すようになった。
神殿設計に共通した特徴として、門を入るとすぐに吹き抜けの中庭があり、柱の並ぶ回廊が内陣、神像を祀る聖域に続いていた。それぞれの神殿の内陣が同じ方向を向くことなくバラバラだったというのが興味を引くという。
内側には建物の遺構があちこちにある。
説明パネルは、基礎のほぼすべては、神殿を表している。ヒッタイト建築全般の特徴として、神殿は石の基礎の上に木骨と日干しレンガ造りで建てられ、平らな屋根で覆われていた。
サイズとプランは異なるが、これらの神殿には一つの基本原則がある。つまり、すべての神殿は大きな開いた中庭を囲むように配置されており、そこから玄関ホールを通って祭壇室にアクセスできる。神聖な祭壇室には、その神殿が捧げられた神の像が置かれていという。
広い空間の中庭は見分けやすい。
『古代都市Ⅰ』は、上の町の神殿では中庭の柱廊は二方に設計されている。また階段の跡が見られることから、これらの神殿は二階建てだったらしいという。
正面は➓No.2の神殿で同書は、中庭の北側柱廊にはライオンの前駆の装飾が施されていた。そのライオン像の一部はボアズキョイ博物館に展示されているという。
左端の木に隠れているのは❾No.3の神殿
Google Earth より ⓫No.5の神殿 ❽王の門 Google Earth より
⓫No.5の神殿
同書は、ゆるやかな斜面に建つNo.5の神殿には他の神殿とは異なった特徴が見られる。ここは下の町の大神殿と同じように二体の神をまつる神殿だった。どんな神々を祀っていたのかは解明されていない。その面積は大神殿の本殿よりもやや小さいが、内部の構造は似通っている。
北側に設けられた堂々たる階段を登ると広々とした玄関ホールがあり、その左右には小部屋が設けられていた。ホールを抜けると20×15mの広さの中庭があった。 この中庭の右奥にある小部屋の役割は解明されていない。
神像安置所のひとつは中庭正面にあった。その奥には2本の通路が奥の院へと続いていた。二番目の神像安置所は中庭の左側柱廊の背後にあったらしいという。
この神殿付近からとんがり帽子に角が4段あるトゥドハリヤ四世の浮彫が発見された(チョルム考古学博物館蔵)。
❼王の門
説明パネルは、城壁の南東に位置しており、ハトゥシャで最もよく保存されている市門。位置、形状、大きさにおいて、南西にあるライオン門と一致している。両側に二つの見張り塔があり、内側と外側に出入口があり、どちらも長細いアーチ状で、かつては約5mの高さがあった。
入口には、記念碑の内部に通じる一対の木製の扉が備え付けられており、軸石は今でも見ることができる。内側の出入口の左側のブロックには、斧、剣、兜を持った戦士の衣装をまとった神の高浮彫が施されている(オリジナルの浮彫は、アンカラのアナトリア文明博物館)。門の外側へは別の外壁と稜堡で保護された傾斜路を通っていたという。
平面図(説明パネルより)
熱心に解説するオキアイ氏。何故かいつも遅れる私。
ここで見られる像はコピーで、オリジナルの像はアンカラのアナトリア文明博物館に展示されているという。
アナトリア文明博物館蔵王の門浮彫
神はヤズルカヤで多くの神が被っていたとんがり帽子ではなく、後ろが長い頭巾を被っている。
![]() |
| ハトゥシャ 王の門の浮彫 前14-13世紀 アナトリア文明博物館図録より |
スカートは杉綾文様(ヘリンボーン)と連続する渦巻き文が繰り返される。当時このような文様を織る技術があったのだろうか、それとも刺繍?
その後バスでどんどん❶遺跡入口まで行ってしまったので、残念ながら⓬南要塞と⓭ブユクカレ(王宮)は見学しなかったが、『古代都市Ⅰ』は、ハットゥシャのアクロポリスであるプユクカレ(大城塞)はギュネイカレ(南要塞)の北に広がる丘の上にあった。
長さ250m、幅が140mのゴツゴツした岩が続くその丘は歴代のヒッタイト王の政治の場でもあり、住まいでもあった。アクロポリスからはハットゥシャの町はもちろん、遥か北部の平野まで見渡すことができたという。
Google Earth より
この日はアンカラで宿泊。朝から見学した遺跡や目にした風景とは異世界のホテルのレストラン
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参考文献
「古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ」(日本語版)2013年 URANUS
参考にしたもの
現地説明パネル


































































