本日はアンカラからカマンカレホユックへ。
地図 Google Earth よりⓐアンカラ ⓑビュクリュカレ遺跡 ⓒカマンカレホユック遺跡 ⓓヤスホユック遺跡
アナトリア考古学研究所が発掘しているのはⓑⓒⓓの3箇所
クズルウルマク川を渡ってアンカラ郊外に出てムガン池のそばを通り、
暗黒時代について説明パネルは、いわゆる「暗黒時代」とは、ヒッタイト帝国の崩壊後、フリュギア人がバルカン方面から移住してきて王国を建設するまでの時代を指します。この時期は、人々が居住した痕跡が見られない空白の時代と長年言われてきましたが、カマン・カレホユック遺跡の発掘調査で、この時代の集落が初めて確認されました。それがIId層です。カマン・カレホユック遺跡IId層では、地中海地域との結びつきを示す二色彩文の土器や、キプロス島に特徴的な形式のフィブラ等、この時代の文化を南方の文化と結びつける資料が出土していますという。
そして印影のある封泥の断片
展示室の壁には発掘時の写真パネルがあるので興味深い見学となったが、一年半も前のことなので、いろいろと説明していただいたのに、申し訳ないことにもう忘却の彼方である。
ここが焼土層だったかな? 大いにピンボケ
ヒッタイト時代初期の土器類
出土物の仕分けをするところも。
復元を待つ大きな土器片などが置かれていた。
その後バスでカマンカレホユック遺跡へ。発掘調査の期間ではないので、外から遺丘を眺めた。思えばホユック、フユック、テルなどと呼ばれる遺丘を実際に見たのはこれが初めて。
クズルウルマク川を越えたのも気付かずに、いつの間にか❶カマンカレの町に来ていた。❷カマンカレホユック遺跡の前に❸カマンカレホユック博物館に向かった。
地図はGoogle Earth より
カマンカレホユック博物館は遺丘風に造られて、周囲の景色と馴染んでいた。
中にはカマンカレホユックと発掘の箇所が再現されていた。手前は北区
その後別室にて大村幸弘氏のお話があり、大勢の若いトルコ人との中に空いた席を探して坐る。まずトルコ語で、次に日本語で静かに語る大村氏に聴き入った。
トルコの人たちが一日三千人も来るという。
説明パネルは、赤と黒の彩色で装飾されており、鉄器時代の地中海沿岸地域に広く分布している。これらの土器は、内面に特徴的な張り出した口縁と、明らかに轆轤で作られたことを示す痕跡を有している。ジグザグの平行線といったシンプルな幾何学文様が多い。把手から伸びる大きな波線は、前2千年紀のギリシア、ミケーネ文化からの間接的な影響を示しており、この彩文土器文化が地中海地域からもたらされたことを示しているという。
昔々はこの「暗黒時代」はヒッタイト帝国が統治していたアナトリアだけでなく、ミケーネにも当てはまるほどかなり広い範囲で言われていて、それは「海の民」によって各地の国などが滅亡してしまったからだと言われてきた。何故「海の民」かというと、エジプト第20王朝のラメセス三世期に海からやってきた敵を打ち負かしたのでその名で呼んだから。現在では否定されるようになってきた。
浮彫付き土器片 IIIb層出土 ヒッタイト古王国時代
ヒッタイト時代の装飾付き壺を思わせる断片もスタンプ印章 III層出土 ヒッタイト時代
説明パネルは、アナトリアでは新石器時代以来スタンプ形印章が使用されていましたが、前3千年紀末に、メソポタミアからもたらされた円筒形印章は、前2千年紀第1四半期のアッシリア商業植民地時代に、主に商人たちにより大量に使用されました。しかし、前2千年紀中頃ヒッタイトの時代になると、再びスタンプ形印章が主流となり、銘も楔形文字ではなくヒッタイトの象形文字(ルイ語)で刻まれという。
スタンプ印章白い土器については後日忘れへんうちににて
発掘そのものも大変だが、それを洗浄し、仕分けし、復元するのももっと時間のかかる作業である。大村氏の奥様の正子氏も考古学者で、その作業が一番丁寧だと褒めておられた。
発掘そのものも大変だが、それを洗浄し、仕分けし、復元するのももっと時間のかかる作業である。大村氏の奥様の正子氏も考古学者で、その作業が一番丁寧だと褒めておられた。
ジオラマがあるとは言え、写真パネルで知る実際の層の深さ。
後期鉄器時代の出土物
土器・スタンプ印章・スフィンクスの浮彫のある土器の断片
豹の頭部小像 ヒッタイト時代 大理石 ビュクリュカレ遺跡出土
『古代オリエント ガイドブック』は、地下室から出土した。王笏に付けられたものと思われ、斑点にはエジプシャンブルーが、目には金とラピスラズリが象眼されているという。
ガラスの塊だと思っていた。
エジプシャン・ブルー について『古代オリエント事典』は、エジプト青ともよばれる、珪酸・銅・石灰にアルカリ溶剤を加え加熱して溶融した化合物、艶のないざらっとした質感が外見上の特徴、しばしばガラスやその類似物質と混同されるが、その構造の大部分が結晶質である点でガラスと、表面に釉の皮膜がない点で施釉石や施釉陶器と、中心部まで均質である点でファイアンスと、それぞれ相違し区別できる。上記原料を粉末状にして混ぜ合わせ、 坩堝で摂氏900~1000度に加熱し2段階溶融して製造された、天然にもごくまれに存在するが、人工物はエジプトの第4王朝時代に初現するとされ、第18王朝に盛期を迎え、第 26王朝前半には、表面に赤・黄などの彩色を施したものも認められるという。
ガラス瓶 古ヒッタイト時代 前1600年頃 ビュクリュカレ出土
ガラス制作はミタンニが最初だと思っていた。詳しくは後日忘れへんうちににて
ガラスがもう1点
何かわからないが、右端に穴があるのでペンダントトップかも。発掘調査に参加した人たちの写真や
館内を見終わって外に出たら反対側にも石造物が並んでいたが、ギリシア・ローマ時代のものが多そう。
説明パネルは、祭壇石、あるいは聖なる水盤として使われていたと考えられているこの遺物は、地元では「牛石」として知られている。一枚の花崗岩から作られ、背中は水盤の形に彫られている。前面には2頭の牡牛の頭が高浮彫で彫られている。雄牛の耳と角は両側に突き出ており、目は丸く、浅浮彫。鼻の下、口の部分には、水盤まで続く丸いほぞ穴が掘られており、水盤から水や液体を出すためのもの。
水盤は水がスムーズに流れるように、わずかに前方に傾斜して造られている。二頭の牡牛は、ヒッタイトの嵐の神テシュプの聖なる牡牛であるフリ(夜)とシェリ(昼)に関連している可能性があると考えられており、これらの特徴を考慮すると、神殿や聖域の入口に、トリンマ(沐浴)を行うために置かれた可能性があるという。
これもヒッタイト時代の遺物。
最後に大村正子氏にお茶を出して戴いた。とても上品な方で、写真を撮るのが憚れるほど。
その後アンカラに戻って休憩。夕食は魚のレストランに出掛けた。
日本では見られないディスプレイ
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参考文献
シリーズ「古代文明を学ぶ」 「古代オリエント ガイドブック」 阿倍雅史・津本英利・長谷川修一編 2024年 新泉社
参考にしたもの
説明パネル





























































