お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2014年5月8日木曜日

アテネ、アクロポリス9 新アクロポリス美術館で夕食


レベル3(日本では4階)でパルテノン神殿の彫刻群を見て回っているうちに、さすがに集中力も尽きてしまった。もう18時を過ぎているとこだし、レベル2の⑪レストランへ。
まずはメニュを選ばなくては。入口を入ったところにメニュがあったので、どれを食べるかメモしておいた。前菜2品とメイン2品、デザートは後で選ぶことに。
テラスで食べるつもりだったが、まだたまだ外は暑いので、冷房の効いた室内の一番アクロポリスに近い窓際のテーブルで食べることにした。
マットにはパルテノン神殿のプラン、さすが!でも左右が逆だったのに気がついていなかった。
飲み物は亭主がビール、私はもちろんアイス・チョコレート。
普段食事では甘い飲み物はとらないが、ギリシア最後の食事になるので、アイス・チョコレートを飲むラスト・チャンスだった。
4品注文すると、前菜とメインは時間をおいて出てくるのかと思っていたら、一度に全部来た。

夕食後ミュージアム・ショップで本をじっくり探すつもりで食べていたら、ショップはもうすぐ終了するという館内アナウンスがあった。ウェイトレスに尋ねてみると、早くショップに行った方が良いとのこと。
食事中に慌てて⑫ショップⅡへ。探すと面白そうな本がいろいろあるが、荷物の重さを考えるとどれもこれも買うわけにはいかない。テーブルに戻っては食べ、行ってはどの本にするか迷いという繰り返しで、落ち着かないギリシア最後の夕食となってしまった。


フレッシュ・トマト・ムース
ムースというよりはジュレ。フェタ・チーズがごろごろ載せてあった。暑い時にはちょうど良い前菜だ。
カリカリのギリシアパン付きサラダ
豚肉のギロ
ギロ・ピタのように、ギリシアの薄いピタパンで巻いて出てくるのかと思っていたら、小さなパンが付いていた。
ギロはオスマン朝の旧領土で広く食べられていると思うドネル・ケバブのギリシア風。イスラームでは牛か羊、鶏などの肉を回しながら焼いて、焼けた部分をそぎ落として食べる料理だが、ギリシアでは、イスラーム圏で絶対にない豚肉のギロがある。それも珍しいし、ギロは食べ損ねていたので、最後に食べられてラッキー!
でも、2人で食べ切れないボリュームだった。
パンもついてきた。
焼きフェタ・チーズ
メインのつもりで注文したが、出てきたのはフェタ・チーズを包んで揚げ、その上にハーブと蜂蜜をかけたものだった。
ちょうど良いデザートになった。これだけで40€弱。決して高くはない。

食事を終え、レベル0(1階)へ。
スロープの終わりにあるゲートを通ると、③ショップⅠはもうロープが張ってあり、ショップⅡで売り切れといわれた本を探すこともできなかった。

外に出ると新アクロポリス美術館の正面出入口はもう閉まっていた。みんなが向かう門から出ると、そこは地下鉄アクロポリ駅だった。
ホテルのあるシンタグマ広場までは1駅だが、さすがに歩くのがめんどうくさくなったので、地下鉄に乗ることにした。
券売機で買った切符はしっかりピンボケ。
通路には地下鉄工事の時に出てきた壺類の大きなパネル。
それらの展示スペースもいくつかある。舗床モザイクも出土したみたい。
そしてホームには、どちらの側にもパルテノン神殿のフリーズのレプリカ。
 エルギン・マーブルの返還を訴えた当時の文化大臣メリナ・メルクーリの写真も。

シンタグマ広場に到着、20時。まだ明るい。
しかし樹木と高い建物に囲まれたシンタグマ広場には、もう光りはさしていなかった。
うっかりしていた。夕日に染まるパルテノン神殿を写すのを失念していた。
これはアクロポリスの北側にあるホテルからのライトアップ。東面と北面が見えている。左にあるエレクテイオンはピンボケだった。
という風に、現地12日間の長~いギリシア旅行は、いろんな発見やドジを繰り返しながらも、無事終了。最後まで疲れずに見学を続けられたのも、元気いっぱいの添乗員M氏のお陰だと思っている。

   アテネ、アクロポリス8 新アクロポリス美術館2

関連項目
アテネ、アクロポリス1 プロピュライア
アテネ、アクロポリス2 パルテノン神殿
アテネ、アクロポリス3 エレクテイオン神殿
アテネ、アクロポリス4 周囲を眺める
アテネ、アクロポリス5 南麓のディオニシオス劇場
アテネ、アクロポリス6 ヘロデス・アッティコスの音楽堂
アテネ、アクロポリス7 新アクロポリス美術館1

2014年5月5日月曜日

アテネ、アクロポリス8 新アクロポリス美術館2


レベル1からエスカレータでレベル3(日本でいうと4階)へ。レベル3は撮影可になっている。

そこは四角く区切られた空間で、後にパルテノン神殿と等身大に造られたフリーズやメトープの展示されている壁面の内部、つまりパルテノン神殿の内部と同じ大きさの空間に入ったのだった。
中にはパルテノン神殿の想像復元模型などが置かれていた。
天井が低いのと、東側はビデオコーナーになっているので、パルテノン神殿の中にいるという感覚はなかった。
西正面
現地では修復作業の重機や足場でよく見えなかった。
『ギリシア美術紀行』は、幅28.35、中央の高さ3.46mの破風は等身以上の巨大な丸彫彫刻で構成されていたという。

彫刻展示室
パルテノン神殿の彫刻群は、東西の破風丸彫り像、外壁のメトープ浮彫、周柱廊上部のフリーズなどの大英博物館他のコピーとわずかな所蔵断片が、当初あった位置に配置されている。

フリーズは南壁西端からと、西壁南端とから始まって、四壁を巡って、神殿の東入口上部で合流している。
同書は、主題は、神殿には他に例をみないことだが、神話や伝説の世界ではなく当時の人間生活を対象としたもので、4年毎に催されるアテナイ最大の祭、大パナテナイア祭のクライマックス、アテナ・ポリアス像に神衣(ペプロス)を奉納するための行列の模様が描かれている。祭の最終日に、外国人をも含めたアテナイの老若男女が様々な役割を担って、夜明けと共にケラメイコスの「行列の建物」を出発して、アクロポリス山上に向かうのである。
フリーズでは、西面全体に行列のしんがりをつとめる青年騎馬隊の準備の様子が描かれている。南北両面は内室を隔ててほぼ同じ位置に同じ行列の構成部分が配置され、行列の流れは東へ東へと進んでいくという。
西南角より
フリーズは内側やや下方に配置され、間近で見ることができる。
『ギリシア美術紀行』によると、西面は現在の神殿に残り、2面は大英博物館にあるということなので、すべてコピーということになる。
西側にはメトープ及び破風の断片が並ぶ。

破風 前438-432年
同書は、アッティカ地方の領有がアテナに決定された後、それに怒ったポセイドンがこの地方を水浸しにしようとする。そしてアテナがそれを阻止すべく立ちはだかる。そういう瞬間が造形化されている。「ポセイドンとアテナ」ではなく、「アテナに挑んだポセイドン」であると、E.ヅィモンの新説を紹介している。
想像復元模型
ポセイドンの背後にあるのは、蛇の巻きついたオリーヴの樹という。
左端近く
ケクロプスとその妻アグラウロス(もしくはその娘の一人) オリジナル

メトープ 前447-442年 
西面メトープは14枚、「ギリシア人とアマゾン族との戦い(アマゾノマキア)」を表すという。
残念ながら騎馬像くらいしかわからないほど風化している。

南面フリーズ 前442-438年
東へ向かって行列が進んでいく。端に近いので、牛を連れて行く場面。
その少し後列の長老たちのデッサン(1674年、J.Carrey画)が展示されていた。

南東角より
同書は、メトープが前447-442年、フリーズが前442-438年に制作され、前438年にパルテノン神殿完成、本尊アテナ・パルテノス像完成、大パナテナイア祭奉納という。

東面へ
東面全体
ペディメントの想像復元模型 原作は前438-432年頃
『ギリシア美術紀行』は、東破風の場合、1674の「カレーの素描」にも両三角隅のそれぞれに数体しか描かれてなく、中央部がいかなるものであったか、もしパウサニアスの記録がなければ、その主題「アテナの誕生」すら判断することができないほどである。「カレーの素描」にある彫像のうち、KとMの首以外、すべてが大英博物館にそのままそっくり残っているという。
『ギリシア美術紀行』は、東破風のうち展示されている彫刻はただの一体に過ぎない。アクロポリス美術館のトルソは、カレーのとき既に地上に落ちてしまっていたもので、その素描にはなく、1840年パルテノンの東正面下で発見された。三角破風の北角で四頭立戦車を駆って大洋の西の果てに沈んでいく月神セレネと認められているという。

フリーズは赤矢印で両側からの行列がペプロス奉納の場面で終わる。

ペプロス奉納の場面 コピー
同書は、行列の先頭は乙女たちであり、すでに彼女たちは東南隅、東北隅を廻って東面の中央に向かってしずしずと歩んでいる。
東面中央のまさに扉上に位置するフリーズの要、神衣(ペプロス)奉納の場面は大英博物館にある
という。

このペプロスが、サフランで染めたもの(『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』より)だったらしい。
東面石板4の左半分 オリジナル
北面から来た行列を東面ほぼ中央で北側を向いて迎えている6柱のオリュンポスの神々のうちの3柱の神々であるという。


北側は見学したが、写真を撮るのがめんどうくさくなってしまった。

北フリーズ第2石板 オリジナル
『ギリシア美術紀行』は、逸る晴がましい祭の心を牡牛の造形に託し、同伴者の若者は、マントに身を包み込むのと全く同じように、その心を節度ある敬神の身振りに秘めて、頭を垂れ、黙々と犠牲獣に付き従う。羊や牛の犠牲獣とその同行者が先行するという。


北東角のライオン樋口
他で見たライオン樋口と違って、薄いを流す穴がない。
説明板は、穴がなく、全くの装飾であるという。

何と言っても、レベル3で一番立派だったのはこのアクロテリア。破風を飾っていたという。
詳しくはこちら

   アテネ、アクロポリス7 新アクロポリス美術館1
            →アテネ、アクロポリス9 新アクロポリス美術館で夕食



関連項目
アクロティリ遺跡の壁画5 サフラン摘みの少女
アテネ、アクロポリス1 プロピュライア
アテネ、アクロポリス2 パルテノン神殿
アテネ、アクロポリス3 エレクテイオン神殿
アテネ、アクロポリス4 周囲を眺める
アテネ、アクロポリス5 南麓のディオニシオス劇場
アテネ、アクロポリス6 ヘロデス・アッティコスの音楽堂

※参考文献
「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「THE ACROPOLIS THROUGH ITS MUSEUM」 PANOS VALAVANIS 2013 KAPON EDITIONS
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館

2014年5月2日金曜日

アテネ、アクロポリス7 新アクロポリス美術館1


アクロポリスの南麓遺跡は新アクロポリス美術館の北側にあるが、出入り口は南東の隅なので、遠回りにはなる。
写真右手が南麓遺跡、奥の建物手前を左に折れると新アクロポリス美術館。
その建物には大きな広告があった。何か商業的な広告だろうと思っていたが、「アルカイック時代の色彩」という美術館の特別展示だった。
上の看板の前で左に向きを変えるとやや低い位置に新アクロポリス美術館はあった。
階段を下りて美術館へと進んでいくと、足元に面白い仕掛けがあった。
ローマ時代らしい舗床モザイクが床に描かれていた。
かと思うと、下には本物の舗床モザイクが。
続いて建物の遺構のようなものが見えてきた。
『THE ACROPOLIS THROUGH ITS MUSEUM』(以下『MUSEUM』)は、美術館を建てる前に行った発掘調査で現れた石器時代後期からビザンティン時代までの遺構だという。

① 遺構
三角形の平たい屋根の下では、遺構がよく見えるようになっていた。
同書は、ローマ時代後期からビザンティン時代初期のものという。
入口に近い方から。様々な大きさの石を積みあげた壁面が面白い。
どちらの写真にも見えている丸い穴は何だろう。井戸かな。こういう所に小銭を投げ込むのは洋の東西を問わない習慣らしい。

② 入口
チケット売り場とアクロポリスの丘の時代ごとのジオラマがいくつか並んでいた。

アクロポリスとアクロポリス南麓の遺跡 ローマ時代
屋根があると全然違って見える。

そして、ゲートを入ると撮影禁止。

④ スロープ
広いスロープの両側に、黒絵式や赤絵式などのギリシア陶器が陳列されていた。幅が広いので、反対側の展示棚までいくのが手間だったが、パンフレットの矢印にあるように、左側は帰りに見れば良かったのだ。
右途中にある2体の像はローマ時代初期のテラコッタ製ニケ
『MUSEUM』が、その足の形から、建造物の屋根に着地したように表されたと考えられているというように、斜面に立っていることを示すようにつま先が下を向いている。


スロープが尽きると階段があり、上り詰めると大きな破風が立ちはだかっている。

⑤ 旧パルテノン神殿西破風の彫刻 前570-550年頃
旧パルテノン神殿についてはこちら
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』(以下『世界美術大全集3』)は、獅子が牡牛などの動物を襲う「獅子闘争図」は、東方起源の図像である。スフィンクスとともにデーモン的な力をもつものとして、それが描かれた当のものを守護する魔除け(アポトロパイオン)的な象徴であったという。
三つの胴体をもつダイモン 
『MUSEUM』は、左端はヘラクレスがネレウスという海の生き物を組み伏せ、右は、像は失われているが、ゼウスらしく、タイフォンあるいは三つの胴体をもつダイモン、有翼の胴体と蛇の尾を持つ生き物。
それぞれが炎または閃光、水と鳥、という3つの自然の要素(火、水、大気)を手にしている
という。


⑥ 古アテナ神殿破風彫刻 前520年頃 大理石
古アテナ神殿はエレクテイオンの南側に建立されたが、両神殿が同時期にアクロポリスの丘に立っていたということはなかった。
アクロポリスのプランはこちら
『世界美術大全集3』は、巨人族(ギガンテス)がオリュンポスの神々に戦い(マキア)を挑んだ「ギガントマキア」の主題が前6世紀末の二つの神殿の破風を飾った。デルフォイのアポロン神殿と当のアテネの古アテナ神殿のそれである。
ギガントマキアにおけるアテネの守護神アテナ女神の勲しを称揚する意図が存在したと考えられる。この図像学と深く関係する作品としてアテネがポリスの国家的威信を発揚せんがために前566年に制定したパンアテナイア祭、その祭神アテナへの納衣(ペプロス)に刺繍されたといわれる有名な「ギガントマキア」が想定されているという。
デルフィのアポロン神殿西破風についてはこちら
同書は、右手に槍を振りかざし、背中と左腕を覆うように、蛇の頭を多数その周囲ら取りつけた大きなアイギスを打ち掛けたアテナが、左脚を大きく踏み込んだ前傾姿勢で、巨人の一人を打ち負かしている。
頭部は、とぐろを巻いたブロンズの蛇を差し込んだと思われるドリルの穴を多数残したヘルメットをかぶり、つり上がり気味の見開いた大きな眼をもつ顔貌は威厳と静謐に満ちているという。
薄いキトンから透けるように表された脚の筋肉、キトンそのものは線刻で衣褶を表している。上着のヒマティオンはキトンよりも厚手に表され、衣端はジグザグに重なっている。このような表現が何という名称で呼ばれているのか、なかなか分からないのだが、仏像の着衣にも同様のものがあり、興味がひかれる。

⑦ アルカイック期の彫像群
この展示スペースで、「アクロポリスの色彩」という特別展示があった。どちらかというと衣文の表現の方が興味があったが、それについてはおいおい。


本来なら、建物の西端のエスカレータでレベル3(日本風にいうと4階) に向かうが、都合でレベル1(同じく2階)を一周した。

⑧ エレクテイオン南柱廊のカリアティド(女人柱) 前420-410年頃
『世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、カリュアティドは着衣の女性像を柱代わりに用いたもので、女人柱とも訳されている。アルカイック時代以来イオニア式建築に採用され、その最も完成した例がこの「エレクテイオンのカリュアティド」であるという。
袖無しの厚衣ペプロスの上に、形から背中にかけてマントを羽織り、遊脚である左脚を僅かに前に出しており、凝った髪型や豊かな髪の表現とも相まって、美しさと完璧な写実を兼ね備えた豊麗時代の代表作となっているという。

⑨ アテナ・ニケ神殿のフリーズ(右奥)と欄干浮彫 前410年頃
当神殿のフリーズは大英博物館が所蔵していると思っていたが、新アクロポリス美術館にも収蔵されていた。
大英博物館蔵のフリーズはすでに紹介しているので、今回は省略。
そのフリーズについてはこちら
サンダルの紐を解くニケ 欄干浮彫
『世界美術大全集4』は、アクロポリスの南西の角地に突き出た人工の保塁(ニケ・ピュルゴスとよばれる)の上に巡らされた大理石製の欄干に施された浮彫り。この保塁の西壁に接して無敵のアテナ女神を祀ったアテナ・ニケ神殿が立つ。欄干そのものは高さ約1mで、保塁の南・北・西の縁沿いに全長42mにわたって並び、その外側の面に、岩に腰掛けたアテナ女神に向かって多数の有翼のニケが、勝利を祝う姿が刻みこまれていた。
本図はそのうち、保塁の北側に設けられた小階段沿いの欄干に刻まれたもので、祭壇を前にしてサンダルを脱ぐニケが表されている。衣そのものの美しくも装飾的な表現など、典型的な豊麗様式であるという。
規則的なジグザグ状の衣端表現はなくなっていくのかな。

⑩ 前5世紀-後5世紀の展示コーナー
各神殿への、各時代の奉納品が展示されている。

     アテネ、アクロポリス6 ヘロデス・アッティコスの音楽堂
             →アテネ、アクロポリス8 新アクロポリス美術館2

関連項目
デルフィ8 アポロンの神域7 アポロン神殿
アテネ、アクロポリス1 プロピュライア
アテネ、アクロポリス2 パルテノン神殿
アテネ、アクロポリス3 エレクテイオン神殿
アテネ、アクロポリス4 周囲を眺める
アテネ、アクロポリス5 南麓のディオニシオス劇場
アテネ、アクロポリス9 新アクロポリス美術館で夕食

※参考文献
「THE ACROPOLIS THROUGH ITS MUSEUM」 PANOS VALAVANIS 2013 KAPON EDITIONS
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館