お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2008年6月17日火曜日
3日目-14 仏国寺(プルグクサ 불국사)には多様な石垣
仏国寺の一柱門の前にタクシーを停めると、運転手の李さんは言った。
5時半までにここ
いえいえ
『仏国寺・石窟庵』は、仏国寺は新羅で仏教が公認された翌年の528年に、法興王の母王妃により、法流寺と言う名で創建された。その後、574年に真興王の母によって最初の増改築工事が行われて、毘廬遮那仏と阿弥陀仏の2体を安置したと言う記録が残っている。また、670年には無説殿が建てられ、681年には大雄殿の釈迦牟尼仏を完成した。751年には宰相金大城によって2回目の増改築工事が開始されたが彼が774年に死去したので朝廷によって大伽藍を構えるに至った。
伽藍配置は大きく分けて大雄殿、極楽殿、毘廬殿、観音殿、地蔵殿の5つのゾーンから成り、本堂をはじめ百余りの付属建物や施設があったという。
しかし、1593年壬辰倭乱(文禄の役)の時、大部分が兵火に遭って焼失した。平禍を免れたのは金銅仏と石造物だけだった。
1612年には左右の経楼、鐘閣、南の回廊などが復旧された。1700年代の中ごろまでに再建され、ようやく伽藍らしさを取り戻すに至った。その後、朝鮮朝廷が排仏政策をとったために仏国寺は衰退し、昔日のような偉容を失った。
仏国寺が今日のような姿になったのは、1969年から1973年にかけての復元大普請の成果であるという。拝観料は4000W。門をくぐったのは15:50。緑の多い違和感のない境内へ。 池に架かる橋を渡る。向こうには四天王門が見える。 日本では仁王さんが通路の両側に前を向いて立っているが、仏国寺の四天王門(チョナンムン 천왕문)はくぐっていると両側に2体ずつ天王が立っている。 また橋を渡り、歩き続けると建物というか、石造のものが見えてきた、16:01。まず見えてくるのはこの石段。大雄殿の前の紫霞門に通じる石橋。下のを青雲橋、上のを白雲橋と言う。青雲橋は階段が17段、白雲橋は16段である。青雲橋と白雲橋の中間にはアーチ型の通路があって、韓国のアーチ橋の始源形態を見せてくれる。紫霞門は釈迦牟尼仏のおわす大雄殿に通じる中門。青雲橋と白雲橋を上って紫霞門をくぐれば、そこは御仏の国である。仏の御身から発する紫金光が霞のように棚引いている門という意味であるという。建物の基壇というのだろうか、石がいろんな形に成形されて組み立てられている。
そして、横から見ると青雲橋(チョンウンギョ 청운교)と白雲橋(ペグンギョ 백운교)の間というか踊り場の下がアーチ形になっているのがわかる。石窟庵の主室への通路もアーチ形というかヴォールト天井になっていた。 板状、そろわないままの石垣などさまざまな造り方をしている。真ん中の楼閣は泛影楼。現在は法鼓が置いてあるが、本来は梵鐘をつるす鐘楼であった。泛影と言う言葉は、梵鐘の音が全世界に響きわたると言う意味であるという。ここも修学旅行生でいっぱいだ。 そして、こちらにも石段がある。極楽殿の前にある安養門へと登っていく石橋。上下2段の石橋で、下を蓮華橋(ヨンファギョ 연화교)、上を七宝橋(チルボギョ 칠보교)と言う。蓮華橋は10段、七宝橋は7段である。蓮華橋の階段には蓮の花弁が彫刻されている。この石段の下は虹橋があって、極楽の彼岸を表現したものである。
安養門(アニャンムン 안양문)は阿弥陀仏のおわす極楽殿に通じる中門で、安養と言うのは極楽の別名である。この門は751年に建立された。1593年壬辰倭乱(文禄の役)で焼失したが、その1626年と1737年に再建され現在の門は1973年の復元大普請の時に補修したという。こちらはアーチ形ではないが、石窟庵のヴォールト天井と私が勝手にいっているのは、ひょっとするとこちらの方に近いかも。そして時計回りに建物の壁を廻る。
階段は立ち入り禁止やし、どこから入ったらええんや 石段を登った右側に出入口があった。向こうに見えるのは大雄殿。 中に入り回廊を南へ。日差しがきついのでちょうどええわ。
円柱は法隆寺と同じで胴張りがあるね これが極楽殿(극락전 クンナクチョン)。阿弥陀仏が安置されている法堂を極楽殿と称する。本尊の金銅阿弥陀如来坐像は8世紀中葉の統一新羅時代のものである。この法堂は751年に6間の規模で創建された。1593年兵火で焼失したのを1750年に再建し、1925年に改修工事が行われたという。前の燈籠は石窟庵のと同じ頃のものらしい。その前の、ここ極楽殿のある空間で全員の注目を浴びているイノシシって何? 安養門から下界を見下ろす。修学旅行生がもっと増えている。 いや、それよりも、泛影楼の下の石板の形が面白い
木造の組物を目指したのかな
※参考文献
「仏国寺・石窟庵」(李性陀)