お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2008年6月16日月曜日
3日目-13 石窟庵(ソックラム 석굴암)の石仏は素晴らしい
石段を登ったところにある建物。創建は石窟庵と同じころなのだろうか。 その前に燈籠があった。あまり古くなさそうだ。 もう1つ石段を登ると石窟庵。両側面が出入口になっている。人が石窟庵を見学するだけの建物。
『仏国寺・石窟庵』という本によると石窟庵は、新羅人の畏敬の対象であった吐含山の稜線上にある石窟庵は新羅第35代景徳王10年(751)に宰相金大城によって石仏寺と言う名で創建された。
1961年に衆生の深い関心と政府の主導下で調査と研究が行われた。その後、全面的な復元工事の成果現在の姿になったという。 我々は右から入った。石窟庵自体には入ることができないが、ガラス張りになっていて、黄色っぽい照明のなかに白く石仏が浮かび上がる。入れない、よく見えないと書いてあるので、期待はしないでいた。それが幸いしたのか、目の前にはなんともいえない素晴らしい空間が広がっていた。
仁王像の両外側にはそれぞれ4体ずつ八部衆の浮彫がある。仁王像と仏坐像の間には甬道のような狭い空間があり、ヴォールト天井となっている。側壁には四天王像。
仏坐像の安置されている平面円形の部屋(主室)の側壁には十大弟子の浮彫板がはめ込まれていて、その1体がやっと見える程度だった。しかし、中に入れないことや、十大弟子のすべてが見えないことが相殺されるくらいに荘厳な雰囲気が漂ってっていて素晴らしかった。
主室の天井はドーム状(龕室)となっている。これは山に横穴を穿って成形し、表面を石で覆ったものではなく、石を組んで石窟を造りあげた後に土を盛ったものらしい。 ここでも熱心にお参りする人がいる。邪魔にならないように控えめに見学していたが、修学旅行の生徒たちがわいわい押し寄せてはさっさと出て行く。それが尽きないので、集中力が途切れたところで左側へと出た。中高生あたりのようだったが、修学旅行生の見学の仕方は日本と同じだった。 そのまま歩いていくと、解体修復以前の部材が並べられているところがあった。それぞれに部材の名称が付けられている。 龕室の天井に使われていたもの。上下反対になっている。 龕室の側壁に使われていた石。これも龕室の側壁に使われていた部材らしい。 駐車場へと帰る道も修学旅行生の列がずーっと続いていた。修学旅行シーズンということだ。石窟庵内部の撮影が禁止だったので、絵葉書や本がほしい。向こうの土産物屋に入ってみたが、ほしいものはなかった。 慶州石窟庵(ソックラム 석굴암)の仁王像と四天王像・慶州石窟庵(ソックラム 석굴암)の見えない仏像はもご覧下さい
※参考文献
「仏国寺・石窟庵」(李性陀)
「世界美術大全集10高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館)