お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年6月18日水曜日

3日目-15 仏国寺大雄殿前には釈迦塔と多宝塔


極楽殿から大雄殿に行くのはこの階段を上る。 ここには16段の階段が3本ある。この合計48段の階段は阿弥陀仏の48大願を表しているという。 登り切ると大雄殿に続く廊下があるが扉が閉まっている。境内図はこちら 南へ向かう。三層石塔と対をなすのが向こうの奇妙な形の塔。 三層石塔は釈迦塔(ソッカタップ 석가탑)と呼ばれている。公式名称は仏国寺三重石塔であるが、多宝塔と一対にして釈迦塔と呼ばれてきた。
高さは10m40㎝、751年、金大城が最初の増改築工事を行った時に多宝塔とともに建立された。この塔は韓国石塔の一般的な構造にしたがい、二層からなる基壇の上に三重の塔身を据え、その上に相輪を載せている。
塔の周囲に彫刻されている八輪の蓮華は、八方金剛座または八方蓮華座台と言い、八部神衆または八部菩薩が安置されていたらしく、このように塔の区域が造成されているのもこの塔の特徴である。
1966年に解体補修した時、世界最古の木版印刷物である無垢浄光院陀羅尼経など28種、70余点の文化財が塔身から出てきた
という。 東の塔は多宝塔(タボタップ 다보탑)で、日本の多宝塔とも全然違う形だ。釈迦牟尼仏が法華経を説いていた時に多宝如来が現れて、宝塔の中で一つの座に二体の仏がすわったことを説き証したという法華経の教えを造形的に表現した塔である。したがって、この塔の構成には仏教の奥妙な内容が盛りこまれている。
四面の正方形の基壇は四聖諦を表している。ぞれぞれ十段ずつの階段は仏教の実践を説いた十信、十住、十行、十廻向を表している。基壇の上には仏法を獅子吼する石獅子が置かれている。塔身部の上部が八角形になっているのは八正道を表している。
751年に釈迦塔とともに建立された多宝塔は、基壇、塔身、相輪の三つの部分に構成されている。塔身部が四層になっているのが特徴である
という。 左経楼には木魚と雲板があった。経楼は元来は経を収蔵した楼閣だったと推定される。1904年頃に崩壊したが、1973年に復元して木魚と雲板を設置した。木魚は水中の衆生たちに仏法を伝える法具、雲板は空を飛ぶ衆生たちに仏法を伝えるために打つ法具であるという。
芬皇寺のも木魚で良かったんや 大雄殿は、釈迦牟尼仏を安置した本堂である。須弥壇の中央に木彫の釈迦牟尼仏像、左右の脇侍に木彫のの弥勒菩薩像と羯羅菩薩像、その左右には土偶の迦葉と阿難の二弟子像が安置されている。弥勒菩薩は未来の仏、羯羅菩薩は過去の仏である。仏国寺と言う御仏の国には、現在、過去、未来の三世仏がおわすことを意味している。この5体の仏像は681年に作られたが、1593年壬辰倭乱(文禄の役)で焼失し、1659年新たに作られたと思われる。大雄殿は681年陰暦4月初8日に落成した。現在の大雄殿は、1436年、1470年、1564年に改修され、1765年に再建されたものである。朝鮮後期の寺院建築を代表する仏殿であるという。 見えているのは紫霞門。 そして大雄殿の裏にあるのは無説殿。経論を論述する講堂である。言葉によって経論を説く場所であるのに無説殿と称するのは、言葉によって真理の本質と仏教の深奥な意味に到達することではないと言う言語道断の境地を表している。670年に開講。現在の無説殿は、1933年の復元大普請の時、遺址の基壇の上に面積32間で再建されたものである。切妻屋根で朝鮮後期の建築様式を踏襲しているという。その裏にある毘廬殿は、毘廬遮那仏が安置されている法堂。ここに安置されている金銅毘廬遮那仏像は8世紀中葉の統一新羅時代のものである。高さ1m77㎝、元来は光背があったものと思われるが現在はない。この法堂は751年に周囲18間規模で創建。1973年の復元大普請の時に新羅時代の基壇と礎石の上に築いたもので、朝鮮後期建築様式を踏襲しているという。
鴟尾の載ってる建物は慶州に来て初めて見たような気がする 観音殿は見んの?
建物も仏像も新しいらしいし、パスしよう 釈迦塔についてはこちら  多宝塔についてはこちら
二仏並坐像についてはこちら

※参考文献
「仏国寺・石窟庵」(李性陀)