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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年1月20日木曜日

7-1 フォロ・ロマーノ(Foro Romano)、バシリカ・エミーリアに行くには

①入口でローマ・パスというと、一般通路の右側の脇のようなところに通され、機械にタッチすると問題なく入場することができた。
入口を入ったところに I due Imperi(2人の皇帝)として秦の兵士俑と皇帝の彫像のポスターがあった。何だろう。
右側奥には⑨クリア・ユリア(Curia Iulia)がある。その間に列柱の痕跡のある細長い区画は⑥バシリカ・エミーリア(Basilica Emilia)のようだ。通路もあるようなので、この辺りまで来てみたい。
ここが②パルティア門跡(Arco Partico)のはずだが、そうとわかるような残り方ではない。アウグストゥスによるパルティア人(イラン系遊牧民)との和議成立を記念する門が建てられていたと角の石碑に記されているという。大きな石碑は角にあった。
㉕神君ユリウス神殿(Tempio del Divo Giulio)との間の通路、聖なる道(Via Sacra)へ。
バシリカ・エミーリアの横にあったアーチのある壁が見えてきた。④新店舗(Tavernae Novae)だろうか。
聖なる道に沿って長い③ガイウスとルキウスの柱廊(Portico di Gaio e Lucio Cesari)がある。
カンピドリオの丘に向かって歩いていく。『ローマ古代散歩』は、聖なる道の路床は初代元首アウグストゥスの時代のものという。
クリア・ユリアの前にこんな建物跡とその壁に掛けられたアカンサスの浮彫を発見。建物の前には円柱が並べられている。ここも店舗だったのかな。
クリア・ユリアは新しそう。
⑤ウェヌス・クロキアナの聖所跡(Sacello di Venere Cloacina)は気づかなかった。
大理石の輪が埋まっている。当初この辺は小川の畔であり、ローマ人とサビニ人は戦いの後、ここに生えていた銀梅花(ミルト、榊に似た常緑樹)の枝で浄めをしたという。また、この辺りには交流のための橋が架けられ、往来の神ヤヌスにちなみ「ヤヌスが閉じられた」と言われた。小川が暗渠化され、橋が神殿に変えられた後は、その扉の開閉が戦争と平和を意味したという。
当時の人達にとってはそれほどの重要な遺跡なのに、大理石の輪っかには気付かず、変な遺構が聖所跡だと思ってレンズに納めた。電話ボックスみたいだった。 
ひょっとすると、角を曲がる前に、左の網で囲ったところに大理石の輪っかがあったのかも。
グーグルアースで見下ろすと、バシリカ・エミーリアの長さと列柱の痕跡、そして南側に並んだ店舗の仕切りなどがよくわかる。

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クリア・ユリアを過ぎてガラスで覆われた遺構の前の通路に入る。ここにも円柱や柱頭が転がっている。
通路の先まで行くとクサリが掛けてあった。見学できる日もあるのか、大きく案内の看板が出ていた。
バシリカ・エミーリアとはどんなものか。
『ROMA』は、 共和制期の4つのバシリカのうち唯一現存するものだ。
紀元前179年に基礎工事がされ、何度も修築を重ねた後、アウグストゥス帝によって再建されている。バシリカという形式はヘレニズム文化の浸透したオリエントで生まれたものとされ(stoa basileiosは、「王の柱廊」という意味)、屋根のあるとひろで、悪天候の時でも、裁判、経済、政治などのフォロの活動を続けるために使われた。フォロに向かう正面はおよそ100mの長さで、2層の16個のアーチからなるファサードがあり、地上階ではアーチの数だけの店があった。内部の会堂(90mX29m)には3つの入口扉から入れるようになっていた。床には、410年にアラリックが放火して起こった火事で融けた貨幣の跡が残っているという。
アラリックは西ゴート族の王。その溶けた貨幣の跡を見たかった。
上図はクリア・ユリアを奧にしての復元図です。

※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)