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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年1月27日木曜日

7-8 フォロ・ロマーノ、パラティーノとカンビトーリオの間の谷

バシリカ・ユリアと3本の円柱の残る㉘ディオスクーリ神殿(Tempio dei Dioscuri)との間にVICVS TVSCVS通がある。
㉘カストルとポルクスの神殿(T.dei Castori)またはディオスクーリ神殿
『ローマ古代散歩』は、2代目皇帝ティベリウスによって再建された。高い基壇の塊と3本のコリント柱が残っている という。
『ROMA』は、紀元前484年にディオスクーリ(ユピテルの双生児カストルとポッルクス)に捧げられたこの神殿は、紀元前117年(基壇が造られた時期)に修復された後、紀元6年(円柱が建てられた時期)にティベリウス帝によって修復された。神殿は、正面に8本の柱が並び、他の各辺に11本の柱が並ぶペリプテロス(周柱式)で、元老院の会議が開かれたり、計測事務所が置かれていた場所であったという。

フォロ・ロマーノでは前廊に円柱が並ぶ神殿跡を見てきたが、周柱式という様式の神殿もあったのだ。
フォリ・インペリアーリ(Fori Imperiali)のアウグストゥスのフォロ(Foro di Augusto)に残る神殿がやはり周柱式だ。
右に曲がってディオスクーリ神殿の基壇や右側のレンガ積みの遺構を交互に眺めながら歩いていると、右に扉を見つけた。左の石板にCLOACA MAXIMAとある。これがクロアカ・マクシマか。ここはバシリカ・ユリアの東端にあたるところだ。
『ローマ古代散歩』は、前6世紀初頭、初代ロムルスの後5代目からは、ギリシアの影響を受けた高度な文明をもつエトルリア系王の時代となる。彼らは凝灰岩ブロックをアーチ状に積んだ、天井の高い大下水道(クロアカ・マクシマ)をつくり、舗石を敷いて小川と不衛生な沼地を地下に封じこめた。それは今日もなお、大量の下水をテヴェレ川に押し流しているという。
ここから入った地下に残っているのだろう。
凝灰岩の切石整層積み(オプス・クワドゥラートゥム)によるアーチ天井をもつクロアカ・マクシマは、昔は見学できたようだ。
㉘ディオスクーリ神殿を振り返る。東側の柱廊のうち、3本の円柱だけが残っている。この通路も立入禁止。
ここから先、西斜面を修復中のパラティーノの丘と西側の高台の間にも遺構がある。

大きな地図で見る

これまで『ローマ古代散歩』のフォロ・ロマーノの平面図を参考に番号に合わせて見てきたが、この辺りは上のグーグルアースと平面図にずれがある。
ディオスクーリ神殿の南側に巨大な遺構があった。その背後はパラティーノの丘。ティベリウス宮殿の西側が修復中。
2つの遺構の間の通路は、サンタ・マリア・アンティクア教会(S.M.Antiqua)に行くためのものだった。教会は㉜ではなく、㉘のディオスクーリ神殿と通路を隔てた位置にある。
『ROMA』は、ヴィザンツ壁画をもつという。
平面は四角で、4方向に切り妻の屋根となっているのがグーグルアースでわかります。
その南側はアグリッパの穀物倉庫?
この先も立入禁止。ここを右に行くとトイレがあります。
しかし、これは㉛ドミティアヌス帝が奉じた図書館(ATHENAEUM、アウグストゥス神殿説もあり)だった。
あまりにもがらんとした壁体だけが残る遺構なので、穀物倉庫と勘違いしてしまった。
手前の赤いレンガに取り付けられた説明板はこの通りVICVS TVSCVSについてだった。
これが㉝アグリッパの穀物倉庫(Horrea Agrippiana)で、カンビトーリオの丘から見えるらしい。
アウグストゥスの有能な腹心で娘婿となったが惜しくも早死にしたアグリッパが建てたという。
ディオスクーリ神殿の先まで戻って右折。東廊に残る列柱を眺める。近くで見ると、円柱自体は長いと感じなかった。
神殿の東にサンタ・マリア・アンティクア教会があり(写真に少しだけ写っている)、柵にはサンタ・マリア・アンティクア・プロジェクトという説明板がかかっていた。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)