お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年8月15日月曜日

1-17 アヤソフィア3 北側廊に様々な時代のモザイク

皇帝の門から堂内へ。16年前は大ドームが補修中で天井まで足場が組んであって、アヤソフィアの中は暗かったと記憶していたが、今この皇帝の門から眺めるとかなり明るい(写真よりも)。
それに、暗闇に浮かんでいるという印象のある後陣の聖母子像も金地モザイクの中にはっきりと見えている。
普通、門から入ったら、大ドームを見上げながら身廊を進んで、まず聖母子像を見に行くだろう。我々もそうするつもりだった。
ところが、ふと左側に目を遣ると、狭いヴォールト天井に今まで見たことのない金地モザイクを見つけたので、思わずそこをくぐって、北側廊(上図着色部分)へと吸い込まれてしまった。
天井には幅のある斜め格子の間を、十字形の花文が埋めているのだが、このモザイクの主文をを囲む文様帯に比べると、花文は一つ一つ違っていて、かなり稚拙な出来なのだった。
花文は金地に赤のテッセラで表されている。地よりも花弁の方が金色が濃い。
狭い通路を出ると、太い柱(ピア)と右の壁(これも柱だった)の間の2本の円柱のある、半円形に凹んだエクセドラだった。見上げるとこれら4本で小さな半ドームを支えている。更に上の半ドームと大ドームが柱の間から見えた。
大ドームの下の広大な空間。奥にも半ドームが2つ。
堂内はもっと明るく、下の方に吊り下げられたランプの光はもっと黄色かった。
ここで左側廊の複雑な天井を見てしまったので、この妙な文様が気になって、側廊をそのまま天井を見上げながら、さまようこととなった。
内ナルテクスにもあったような文様と、赤いテッセラで描かれた文様が二重になっている。
どちらが先で、どちらが後なのだろう(ちょっとピンボケ)。
真上を見上げて写真を撮り続けるのは疲れるし、レンズを通すとどちらの上にどちらが描かれているのかがわからなかった。
しかし、写真を編集していると、もっとピンボケでも、赤いテッセラの上に、内ナルテクスでも見たような文様がある。
赤いテッセラが表しているものは十字架だ。イコノクラスム期(726-843年)に創建時のオリジナルのモザイクを剝がして、赤色の稚拙な十字架のみ表されたのだろう。
ということは、小さなモティーフを複雑に組み合わせた文様は、イコノクラスム以後に制作されたもので、赤い十字架は消さずに残したことになる。内ナルテクスの天井の文様とはだいぶちがっている。
ということはあの狭い通路のヴォールト天井のモザイクもイコノクラスム期のものだったのだ。
もちろん今いる左側廊も格子窓になっている。実際は金色だったが、こんなに煤けた感じに写ってしまった。
ここのモザイクはほぼオリジナルのままのようだ。
左向こうの色大理石で装飾した壁のようなものが、大ドームからおりたペンデンティブを支えるピア(太い柱)だ。
右側廊の壁面にも格子窓が並んでいる。
このアーチの円と菱形をお互いにくぐらせたようなロープの文様も、赤いテッセラばかりなので、イコノクラスム期のものということになる。
でも、端の文様帯などはオリジナルのままだろう。
この交差ヴォールトにはイコノクラスム期以後の文様だけある。
こちらには様々な時代のモザイクが混じっている。
あまり美しいとは言えないモザイクの天井を見上げていて集中力がなくなってしまい、北側廊の端まで行かずに身廊に出てしまった。

※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」(益田朋幸 2004年 山川出版社)