お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年9月9日月曜日

ペロポネソス半島4 ミケーネ4 アクロポリス


円形墓域Aを見終わったところで自由時間となった。再集合は駐車場で25分しかない。アクロポリスで見たい所、確認したいものはたくさんあるのに、そこまで往復して、トイレにも行ってということになると、大急ぎで写真を撮りまくるしかなかった。

円形墓域Aから見学コースに戻ると登り坂。これが4:傾斜路と呼ばれているものだ。

坂を登ると行き止まりになっていて、左に折れるのだが、そこに説明板があった。
その説明によると、柿色の平面の家は、かの有名な「戦士の壺」が発見されたのにちなんで、4:戦士の壺の家と呼ばれているという。
戦士の壺については後日。
下の写真では、奥の木の両側に見える基礎部分にあった家屋だろう。その左側に屋根の架かった場所がある。
もっと上から見た写真。
戦士の壺の家などは4にあたり、5は祭祀センターだったが、見学はできなかった。
祭祀センターについて『古代ギリシア遺跡事典』は、そこには前13世紀の祭祀センターが発掘されている。
なかでも重要なのは、「神殿」と呼ばれる施設と、「フレスコ画の部屋」を中心とする建物である。「神殿」の主室の東側には、3本の柱を隔てて北側へのぼる階段が設置され、その上部は、祭祀にかかわるテラコッタ像などの収蔵庫となっていた。しかし、さらに興味深いのは、主室の北壁に沿った祭壇の上から、原位置の状態で供献台とテラコッタ像が出土したことである。
「フレスコ画の部屋」の主室では、中央に楕円形の炉があり、おそらく女神に供物を捧げようとする女神官を描いたと思われるフレスコ画が、北東の壁を飾っていたという。
フレスコ画などについては後日。

実際の見学では、折れ曲がりながらアクロポリスへと登っていくことになる。
段々頂上に近づいてきた。
この先をまた右に曲がってプロピロン跡へ。
次の説明板は、これは宮殿複合体への正式な入口である。2本の単独柱のある柱廊には、中央に扉のある壁のある、正方形のプランだった。現在では2本の円柱の柱礎を見ることができる。これは初期の建造物で、宮殿が破壊されるまで存続していたという。
実を言うと、宮殿へと向かっている時に見落として、ライオン門へと戻るときに気づいて撮ったのだが、ちょうど見学者たちが往来していたため、変な写真になってしまった。
8のメガロンは次回に回して、9が現在の遺跡の最も高いところ。
しかし、ここにあるのはミケーネ時代の遺構ではなく、歴史時代の神殿だったことが説明板でわかった。
説明は、ミケーネ宮殿の破壊の後も、継続して居住した痕跡が、大量の壺類、幾つかの墓地、2、3の建物からわかる。ミケーネ時代の宮殿の中庭の北側に少し重なって、幾何学様式の時代(前9-8世紀)の聖域が少し重なっているのが明らかとなった。アルカイック時代(前7世紀第4四半期)に四角形のケラ(内室)をもつ神殿が丘の頂上に建立された。遺物にはユニークな浮彫が含まれ、中では完成したダイダロス様式の女性の頭部が傑出している。後にヘレニズム時代の神殿が、前3世紀初頭に、アルカイック時代の神殿の基礎の上に建てられた。どちらもアテナかヘラ女神を祀っていた。ヘレニズム時代の遺構が少し残っているだけであるという。
赤い四角形がヘレニズム時代の神殿、その南端がミケーネ時代の宮殿に達している。
博物館のジオラマの方が分かり易い。

丘の向こうへと見学路は続いていた。地下貯水槽がどこかにあるはず。

向こうの遺構に行くには橋を渡らなければならないようだった。その手前に説明板があるようなので、取り敢えず、そこまで行ってみた。

現在地は10:職人街。
説明板は、円柱のある家と共に宮殿の東翼に属するという。円柱のある家にも行ってみたい。
しかし、すでに15分が来ようとしている。15の地下貯水槽まで行くのは到底無理。
『古代ギリシア遺跡事典』は、前13世紀の末に城壁が北東方向に拡張されたのは、おそらく籠城戦に備えて水を確保するためだったと考えられる。というのも、この部分には岩盤の亀裂を利用した地下貯水槽が設けられているからである。
貯水槽の入口部分は、ティリンスのギャラリー部分やアルカディコの橋と同様に、巨石を持ち送りにして築かれている。北側の城壁内部を斜めに横切るように16段降りると、小さな踊り場があり、そこから西へ向かって20段下りると、さらに3段のステップのある踊り場に出る。そこから反転して54段降りたところが貯水槽である。ここには、城外からパイプで水が引かれていた。貯水槽そのものは意外に小さいが、階段部分の壁にも防水処理が施されていることから、実際には階段にも水が貯められていたのではないかと推測される。
このような地下貯水槽の遺構は、ティリンスやアテネのアクロポリスでも知られており、ミケーネ時代の末期にしばしば長期的な攻城戦が行われたことを示唆している。なお、この遺構は内部が真っ暗なので、見学にはサーチライトが必携であるという。
ここまでで止めて正解だった。十分に時間があっても、懐中電灯もヘッドランプも持参していなかった。せっかくだからと暗い中を下りて、滑って水にはまっていたかも。

説明板は、ほぼ四角形のプランで二階建て、北西の角に階段がある。現在では基礎のみ残っている。
狭い中庭の両側に部屋が並んでいる。その北の端に入口がある。建物は職人達のワークショップだった。制作途中の象牙製品、原料のままの金属などが残っていた。前13世紀後半のものとされる。同世紀末の火災で焼失したという。

何となく碁盤の目状に小石を積んだ基礎が残っていそう。

引き返そうと反対側を向くと、城壁があった。城壁の向こうにのぞく屋根はメガロンの覆い。
中央左の山のようなものはアトレウスの宝庫と通称されるミケーネ時代の墓。
どちらも後日アップします。

集合時間に間に合うように、急いで下りてきた。
下方には6:北地区の建物群の基礎、そして左の木の左側にはライオン門が小さく見えている。

『CORINTHIA-ARGOLIDA』には、時代は不明だが、丘の上に宮殿があった時代の想像復元図が載っていた。

            ミケーネ3 円形墓域A← →ミケーネ5 メガロン

関連項目
ミケーネ9 アトレウスの宝庫はトロス墓
ミケーネ8 博物館3 渦巻文は様々なものに
ミケーネ7 博物館2 土偶
ミケーネ6 博物館1 祭祀センターのフレスコ画
ミケーネ2 ライオン門
ミケーネ1 円形墓域B

※参考文献

「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「CORINTHIA-ARGOLIDA」 ELSI SPATHARI 2010年 HEPEROS EDITIONS