ティムールの時代、サマルカンドの街には次々と建物が建立された。
アフラシアブの丘の近く、あるいは17:シャーヒ・ズィンダ廟群の近くに12:アムール・チムールのジュマ・モスクと13:ビビ・ハニム・モスクと廟が建てられた。
12は、『中央アジアの傑作サマルカンド』ではアムール・チムールのジュマ(金曜)・モスクとされているが、一般的にはビビ・ハニム・モスクと呼ばれている。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、ビビ・ハヌムはアムール・チムールの正妻であるサライ・ムルク・ハヌムである。彼女はチャガタイのカザン・カンの娘であり、アムール・チムールとの結婚前はアムケール・フセインの妻であった(1364-70年)。アムール・チムールの妻となったのは1370年であり、それはアムール・チムールがフセインを退位させ、チャガタイ族と共同体関係になったときであった。アムール・チムールが君臨した時代、彼女はチムールの家族内で尊重され、中心となる妻とみなされていた。
技術者の推定値に基づくと、モスクの全建物の最初の重量は72.700tであり、煉瓦を積んだ部分の量は40.000㎥であった。地震でひどく破壊され、現在はこのモスクの60%の建物が残っているという。
非常に大きな建物のため、全体を1枚の写真に収めることは難しい。
ビビ・ハニム・モスク 1399-1404年
『イスラーム建築の世界史』は、首都サマルカンドのビービー・ハーヌム・モスクは、これを世界一のモスクとすることを目論んだティムールによるペルシア風の大帝国建築である。その建築は、従来のチャハール・イーワーン形式を継承し、キブラ方向の大ドームの他に、副軸上のイーワーンの背後にもドーム室を付ける。ドームには従来の二重殻ドームよりさらに内殻と外殻とを大きく乖離させた二重殻ドームを用いることで、室内は従来通りの高さながら、外側は高いドラムの上のドームを際立たせている。さらに建物の四隅、そして巨大なイーワーンとキブラ側のイーワーンのそれぞれ両側、計8本ものミナレットを立てる。ミナレットとドームで建物が区切られ、建物全体に占める色タイルの割合が増し、外観を目立たせているという。
南側のドームと外向きのイーワーン。主ドームは見えていない。
同じく南側のイーワーンとミナレット。その間に見えるのが正門。
やっと正門側全体が見渡せた。それほどこのモスクは大きい。
北側のドームとイーワーンが見えている。
広い歩道の向かい側には13:ビビ・ハニムのメドレセと廟。
メドレセは基礎部分だけなので、あまりひとけのない廟だけがひっそりと立っている。
正門ファサードも巨大。だが、シャーヒ・ズィンダ廟群のそれぞれの廟のファサードがタイルで密に装飾されていたのと比べると、焼成レンガの地の部分が多い。
『イスラーム建築の世界史』は、ティームール朝盛期に、急速に大建築を量産する中、タイル技法は絵付けタイルとモザイク・タイルに収斂していく。建物の軀体部と被覆部が分離し、建物各所がタイルで覆われるようになると、次第に矩形の土色のタイルと色タイルを組み合わせるハザール・バフ(バンナーイー)と呼ばれる技法が主流となり、大柄な幾何学文様が建物のファサードを覆い尽くすという。
また、『砂漠にもえたつ色彩展図録』で同じ深見奈緒子氏は、長方形のタイルを切断することなしに、そのまま用いたモザイク・タイルがある。彼は大建築を短期間に美しく覆い尽くすために、とりわけ装飾プログラムをパネル化する際に、大画面に適応可能なこれらの技法を積極的に採用したという。
彼とはもちろんアムール・ティムールである。
モザイク・タイルという言葉を眼にすると、色タイルを細かく切り刻んで文様の一部とし、他の物と組み合わせるという、気の遠くなるような作業と、出来上がった美しい壁面を想像するが、このような大きな文様を、長方形などに焼き上げた色タイルと素焼きのタイルとの組み合わせで文様をつくり出すものもまた、モザイク・タイルの一種であることに変わりはないのだった。
濃く見える部分がオリジナルという。
内側のイーワーン上部は絵付けタイル。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、「ここに入る人は、平和にいる」とジュマ・モスクの玄関に書かれた銘、15世紀。
アムール・チムールのインドへの行軍後、1399年に建築が始められ、5年後に完成した。征服した国々の名建築家や画家、手工にモスクを建築させた。インドから連れてきた象は、重いものを持ち上げ、運んだ。
モスクの建築途中で、アムール・チムールはトルコとエジプトのスルタンへの行軍に出 発した。アムール・チムールは玄関が高くないと考え、再建を命令した。結局、そのとき建てられていた玄関は、その当時最も高いモスクの玄関であった。モス クのアーチは大きい装飾柱で支えられ、それは角の50mの塔状のミナレットで固定されていたという(訳があまりにも不自然な場合は書き換えています)。
イーワーンの尖頭アーチに白いタイルで表されたのがその銘文かな。
ミナレット頂部はモザイク・タイルではなく、絵付けタイルであることが、剥がれた跡からわかる。
『イスラーム建築の世界史』は、ペルシア世界では稀であった大理石板の腰壁が、インドからの影響を物語る。これがきっかけとなったのか、壁体が軀体部と荷重のかからない被覆部とに分かれる。これによって見栄えのよい建築を短期間で構築することが可能となった。しかし、仕上げを美しく見せるための被覆部が壊れ、軀体を露わにしている多くの遺構を見ると、量産による質の低下は否めないという。
剥がれた箇所が赤くなっているので、コバルトブルーの色タイルを刻んだものとわかる。
大理石を切った8点星と十字形を組み合わせて、コバルトブルーのタイルを組紐のように交差させながらその輪郭線としている。
こちらも同じくコバルトブルーのタイル片を組紐として、大きな8点星、小さな4点星が同じライトグレー、変形六角形が少し濃いグレーの大理石を切っている。
門をくぐる時にすぐ上にあるムカルナスもまた、上部の荷重を支える役割は失われ、装飾と化しているのだった。
ここにも石材が使われている。
中庭から正門を振り返る。基本的にファサードの内側にはタイル装飾はない。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、130X102mの広いモスクの庭には、大理石から作ったタイルが敷かれている。そこでは数千人の信者がお祈りできた。庭の周囲に沿い、アーチ・ドームを400本の大理石の柱で支えられた渡り廊下があったという。
ウズベキスタンで一番大きなモスクというだけあって、中庭は広大。
南側西隅のミナレットと外に開いただけで扉口のないイーワーン。
北側の2つの外に開いたイーワーン、その間には内に開いたイーワーンとドーム。
正面にあるのは巨大な石のコーラン台。
そこにはアラビア文字や植物文の浮彫が施されている。
同書は2つのドームの間のこの空間について、冬のモスクがあった。メインの建物には、金箔の膨大な外ドームがあり、球と三日月がドームの頂上を飾っていた。また、以前はモスクの中心に、儀式用の洗礼をするための別館があった。現在、そこには非常に大きなコーラン台がある。ウルグベク時代に作られ、メインの建物に置かれていたという。
礼拝する前に身を浄めるのがムスリムの決まり事だが、それは日本のお寺や神社に手水舎があり、参拝者が手を洗ったり、口をすすいだりするのと同じ。このような習慣もひょっとしてシルクロードで伝わったものかも。
→ビビ・ハニム・モスク2 主モスク
関連項目
ウズベキスタンのイーワーンの変遷
イーワーンの変遷
イーワーンの上では2本の蔓が渦巻く
ドームを際立たせるための二重殻ドーム
ビビ・ハニム・モスク3 南北のドームのある部屋
サマルカンドで街歩き1 レギスタン広場からシアブ・バザールへ
※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「岩波セミナーブックスS11 イスラーム建築の世界史」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「砂漠にもえたつ色彩展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人