お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年9月10日木曜日

シャフリサブス2 アク・サライ宮殿


2 アク・サライ宮殿 1380-96年
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』は、「アク」は「白い、壮大な」意味、「サライ」は「宮殿」を意味している。アミール・チムール時代にはシャフリサブスの北西部でサマルカンドにあるチムールのコク・サライより広いアク・サライという巨大な宮殿が建設された。ほとんどの工事は1380-96年に行われた。宮殿の建設工事は現地工芸家ならびにホラズムや他の侵略された国からの工芸家により行われたという。



同書は、 16世紀後半のとき、アミール・チムール王朝の跡を消そうとしていたシャイバニ族の時代に宮殿の建物が崩された。
伝説によると、都市にきたアブドッラ・ハン2世は遠方にアク・サライの高い外壁を見かけ、あまりに怒り出し、宮殿の全破壊を命じたと言われている。もう都市そばにいるかと思ってアブドッラ・ハンは駆け足で走り出したが、馬を乗り潰しても中々シャフリサブスに近づかなかった・・・。
現在まで巨大な入り口の両側の表面の遺跡しか残らなかった。入り口の両側に22mの距離で立っている2本の塔の遺跡もまだ残っている。今38mの高さであるが、元々の高さは50mであったという。
遙か彼方にアムール・ティムールの像が見えているが、当時の宮殿の範囲はどこまでだったのだろう。

同書は、1404年にシャフリサブスを訪問したクラビホというスペイン大使の日記及び16世紀前半の「ボブル・ナメ」という本にもアク・サライ宮殿が描かれている。アク・サライ宮殿の建物全体には巧妙な装飾がついていた。表玄関の装飾にはモザイク技術が使用され、ライオンと太陽の紋章模様及び3つの輪が現れるアミール・チムールのサインの模様がついていた。宮殿の壁画の一つには「我々の偉大さに疑いがあったら、我々が建てた構造物を見なさい」という銘が書かれていた。表玄関のモザイク縞模様にはイラン出身の装飾家ムハマッド・ユスフ・テブリジという名前が付けられ残ったという。
ティムール像側から見ると、タイル装飾はほとんど残っていない。

建物のあちこちに細長い明かり採りが開いている。きっと上部に昇る階段があるのだろう。
西門脚の一番外側の塔にバンナーイのタイル装飾がよく残っていて、そこにも斜めに明かり採りが並んでいる。ミナレットと同じように螺旋階段になっいるのだ。
東側の上には柵があるので、自由時間に上がってみたい。
内側に回ると、タイル装飾がよく残っていた。

今は失われた大アーチを見上げる。上の方がオーバーハング気味に迫り出ていて、かつてアーチがあったことを実感。
絵付けタイルが多く見られる。下の方のタイルの剥がれた箇所に、六角形のタイルの痕跡が並んでいる。焼成レンガを積み上げた壁面には、分厚く漆喰を塗って、そこに絵付けタイルを貼り付けていたのだ。
左手の壁面はモザイク・タイル。小さなタイル片の剥がれた跡が痛々しい。左端に螺旋状の付け柱。

螺旋状の付け柱から別の小壁面。ここもモザイク・タイルで覆われていた。

同書は、偉大な入り口の後ろに池のある広い中庭があった。この池のモザイク・タイルが今でもたくさん残っているという。
かつての池の輪郭が現れている。
別のところでは池のモザイク・タイルも出土している。
モザイク・タイルは一部で、正方形のタイルの中心に8点星を置き、そこから放射状に線が出ている。八角形の車輪のような図柄の絵付けタイルが多い。

東側も同じようにタイル装飾で壁面が埋まっている。
塔のタイル装飾は修復されたもののよう。
地中から塩分が上がってきているらしく、柱礎に白いものが付着している。

同書は、昔、塔の中にあったらせん階段がギヤ形の欄干で飾られた表玄関まで上がっていたという。
残念ながら、そのらせん階段の扉は鍵がかかっていた。
上に上がると西側の門脚の上部がよく見えたのに。
西側の門の壁面が、上ほどこちらに傾いている。これがアーチの痕跡。

         シャフリサブス1 アク・サライ宮殿の門へ
                     →シャフリサブス3 ハズレディ・イマーム・モスク

関連項目
シャフリサブス4 ジャハンギール廟
アク・サライ宮殿の門 タイルの剥落
世界のタイル博物館5 クエルダ・セカとクエンカ技法

参考文献
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人