④ボロ・ハウズから東へ、道路の向こうには⑤アルクが立ちはだかっている。
『旅行人ノート⑥』は、アルクとは城塞(内城)のことで、ブハラの町が開かれた5世紀から今世紀の初めまで、ブハラを支配した様々な人々の居城となった。建物の内容は主の交替によりしばしば変化したが、18世紀のマンギト朝期に大規模な改修が行われ、現在に至っているという。
『中央アジアの傑作ブハラ』は、面積9.2haの人口の坂の上に建てられたアルクは、ブハラの内部の要塞であった。そのアルクはおよそ2000年もの間、存在している。伝説によると、アルクは、伝説的な英雄であるシヤブシュによって建てられ、そのシヤブシュ自身がアルクの東門のそばに埋葬されたそうである。5-8世紀に、アルクは高い塀で包囲された。歴史家のナルシャヒによると、アルクの塀は、ビドゥンの支配時に大熊座の星座に模して再建されたそうであるという。
同書は、その大玄関はレギスタン広場に向かっているという。
レギスタンとは「砂の場所」という意味で、サマルカンドにもあるが、ブハラでは、アルクの西と南の広場をいう。
平面図では、現存する建物は西側に集中している。
『旅行人ノート⑥』は、1920年のブハラ革命の際に7割近くが焼失してしまった。今では焼け残りの部分が一部復元され、内部には複数の博物館が置かれているという。
『中央アジアの傑作ブハラ』は、18-19世紀に、アルク要塞は、ブハラ・ハン国の中心地であった。アルクの中には、ブハラのアミールの宮殿、モスク、財務省、政府の行政局、および刑務所があった。アルクの構造物は、赤軍が焼夷弾攻撃を行って、都市を爆撃した1920年に非常に損壊してしまった。この為、アルクの領域の大部分は何もないという。
①門
同書は、巨大な門は上のほうにギャラリーでつながれている2つの塔で補強されていたという。
②入口のギャラリー
門をくぐると左に曲がり気味で、それを過ぎると丸太を並べた平天井が長々と続く。その右には生活用具などが展示され、
左は監獄が並んでいる。
トンネルを抜けて右へ。モスクが見えてくる。
③モスク
『旅行人ノート⑥』は、17世紀に建てられた金曜モスク(ジャーメ・マスジディ)は現在写本の博物館という。
アイワン(柱廊)は夏用モスク。西壁にミフラーブの龕がある。
天井は非常に装飾的。
柱頭にはムカルナス、
柱の下部はギリヒ(幾何学文)やイスリミ(植物文)の浮彫があるのは、ボロ・ハウズ・モスクと同じ。
東側のアイワン
中は冬用のモスクとなっていて、4本の柱で支えられ、9つに仕切られた天井の中央が一段高くなり、明かり取りとなっている。
イーワーンの柱頭もこんな風に彩色されていたのだろう。
西側のミフラーブ
展示されているコーラン
→ブハラのアルク2
関連項目
ブハラのアルク3
※参考文献
「中央アジアの傑作 ブハラ」 SANAT 2006年
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「UZBEKISTAN The Great Silk Road TOURIST MAP」