トプラク・カラを発って、
気が付いたらアムダリヤ近くまで来ていた。
インターネットの旅行記を読んでいると、アムダリヤは浮き橋のようなものを歩いて渡るらしかった。面白そうなので、期待していたのに、バスはそのまま橋を通って、あっけなくアムダリヤは通り過ぎてしまった。
その次に目が覚めたら、右手に城壁の遺構のようなものが見え、前方には門があった。
ヒヴァは城壁で囲まれた街。
『ウズベキスタンの歴史的建造物』は、ヒヴァは古代ホレズムの中心の一つであった。8世紀にこの領域をアラブ人が征服し、ヒヴァもイスラム教の世界の一部になった。9世紀にホレズム王国が成立したが、13世紀にモンゴルによって破壊された。14-15世紀にティムール朝下にあり、16世紀初にはジョチ・ウルスの系譜を引くウズベク人のシャイバーニー朝(ブハラ・ハン国)の支配下となった。
17世紀にアムダリアの流れが変わって、ヒヴァはオアシスの中心及びハン国の首都となった。ヒヴァ・ハン国は1870年代にロシアの保護国になった。ヒヴァのハンは1920年に王座から降ろされ、ヒヴァ共和国が設立された。
イチャン・カラ(内城)は、16-17世紀にはヒヴァの境界であった。長さ2.2㎞、高さ7-8mの土塁に囲まれている。内城の壁は18世紀中頃、イランのナディール王の侵入で一部破壊され、ヒヴァは征服された。
ヒヴァはクングラッド王朝時代に拡大したという。
バスは左折し、南城壁に沿って走って行く。
そして西南の角で右折。
西壁に沿って進んでいくと、
城壁の途切れたところから、右折してイチャンカラ(内城)に入って行った。
そしてメドレセに付けて停車。
地図①のモハメド・アミン・ハンのメドレセが今夜の宿泊施設なのだった。
裏口のようなところからフロントへ。漆喰の浮彫装飾が見事な、オリエント・スター・ヒヴァという名のホテルだった。
天井はドーム風になっていて、そこにも精緻な漆喰装飾が。フロントだけでなく、通路も壁と言わず天井といわず、白い漆喰に浮彫装飾が、しかも様々な文様で施されている。これは今までにない装飾だった。
中庭には大きな壇のようなものが。何をした場所だろう。
二階建てのメドレセを改装したホテルで、私の部屋は中庭に面した1階のフジュラ。
入るとほぼ真っ暗、窓という物がほとんどなく、ヴォールト天井がやたらと高い。その上薄暗いので、形状がいまいちわからなかった。
壁あいた小さな龕、学生が自分の持ち物を入れていたのかな。
『旅行人ノート⑥』は、1851-55年にかけてムハンマド・アミン・ハーンの命により建設された。当時は町でも最大のマドラサで、豊かなワクフに支えられ、学生のための宿坊もヒヴァでは初めて2部屋のものが導入されたという。
確かに2部屋続きの部屋だった。奥が浴室で、やはり窓はなかった。
入口の上にある小さな窓から入る光が、唯一の外からの照明。
隣のマトニヤズ・デヴァンベギ・メドレセで夕食。
ここも浮彫漆喰の室内装飾だった。
前菜とパン2種、そしてデザートの果物(奥)
デザートのナッツ類にスープ。
そしてメインは挽肉を炒めたものを薄焼き玉子で巻いた料理。
実は、ブハラからカラカルパクスタンまでの道路の状態が良くないということなので、出発前に市販の酔い止めを服用したところ、バスに乗るとまもなく、眠気が出るというよりも、すーっと意識がなくなってしまうといった一日だった。帰国後、薬剤師さんに聞くと、1粒なめて効かなかったらもう1粒というふうにするものなのに、1回分と思って3粒全部なめたために、効き過ぎてしまったのだった。
ゆっくりお風呂に入った後は、寒くてエアコンを付け、早々にベッドに入り、またたく間に深い眠りについた。
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参考文献
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「UZBEKISTAN The Great Silk Road TOURIST MAP」 Cartographia 2009年
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 A.V.アラポフ 2006年 SANAT