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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年2月24日水曜日

ニサ1 遺跡の狭い通路を歩き続けると


トルクメニスタン南部、コッペ山脈とかコペトタグなどと呼ばれている山脈の向こうはイランというところに首都アシガバードはある。

ニサはその西の郊外にある。
OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE』は、旧ニサと新ニサという2つの古代の遺跡は、アシュカバードの南西16-18㎞、コペトダグ山脈の裾野、バギル村の外れにある。旧ニサはトルクメニスタンの重要な歴史的記念物の一つで、強力なパルティア王国(前250-後224年)だった。ミトリダテスⅠ(前171-138)とミトリダテスⅡ(前124-87)の時代にメソポタミアからインドまでの広大な領土を統治した。
アレクサンドロス大王が前323年に死んで、大帝国は国土を段階的に分割していった。前305年、現トルクメニスタンの南方、古代パルティア王国の土地はセレウコス朝(アレクサンドロスの部将の一人)の一部となった。
前250年、パルティア王国の土地のセレウコス朝の統治者アンドラゴルは中央の職を辞した。しかしながら前245年サカ-マッサゲタイ族(トルクメン族の祖先の一つ)は、アルサケスとトリダテスの指導の下、カスピ平原からパルティア王国へと移動を開始した。その後アンドラゴルを殺し、アルサケスをパルティア王国の王であると宣言した。500年以上存続した。中国からヨーロッパの国々まで延びた「大シルクロード」はその領土を通っていた。
主要な経済は、人工灌漑による農業、牧畜と同時に、交易と手工芸も発達したという。


アシュカバードからバスで30分ほどで道路からそれて丘を登ったところが旧ニサだった。
右手に周壁が見えてくるとすぐに遺跡への入口があった。

入口からは主要な建物や左奥には発掘現場、建物の手前には貯水池などが見えた。
遺跡プラン(数字は見学順路)

入口を目指す。たくさんの建物が残っているみたい。
左奥の発掘現場。
 かなり修復が進んだ建物や、日干レンガのままのものなどさまざま

① 入口
ただの四角い開口部
② 入ってすぐに左の狭い通路へ
日干レンガで造った建物は、そのままレンガが見えるのではなく、土で覆われ、漆喰で白く仕上げられていた。
ガイドさんはそう言いながら、漆喰の残っている部分を示した。
白い漆喰がところどころ残っていて、漆喰の厚さが感じられる箇所もあった。

通路は狭く右側の日干レンガで修復してある壁の終わる所③で右へと向かった。

④ 狭い通路
このレンガ壁が⑰櫓状建物の外壁だった。

その通路を入って行くと、

⑰ 櫓状建物 The Tower like building (TB)
入口から入って壁の間の狭い通路を、角を曲がりながら歩いていったが、櫓状建物建物の周壁、あるいはその外側に沿って進んでいた。
通路は途中で行き止まり。櫓状建物の外通路だった。
この凹みは櫓状建物への通路?
赤い色が残っていると言われれば誰もが写した。
赤い植物顔料を土に混ぜて日干レンガに塗った。その色が今でも残っているのだそう。
しかし、ベンガラのような無機顔料ならともかく、有機顔料は長く残らないと化学系の亭主はいう。文系の私もそう思う。

その先に2本の円柱がある
⑤ 2本の円柱のある場所
円柱の基礎は、保護のために土が被せてあった。
その外側の遺構。
円柱の背後には櫓状建物の廊下への入口があった。その向こうは櫓状建物の修復された壁。
平面図を見ると、櫓状建物の裏側入口の前にあたる。ということは、円柱の外側の壁は遺跡の保護のために築かれたもので、当時はこちら側からも入ることのできる通路があったのでは?
櫓状建物の壁に沿った廊下を進む。

⑥ 櫓状建物のもう1本の廊下が、
しかし、狭くて先で行き止まりだった。
突き当たりまで進んで右折、櫓状建物の廊下へ。

しかし、⑦の廊下はまたしても途中で行き止まりになっていた。
右を向くと⑰の内側が見えているのでは?中に入れば良かった!
奥壁の色の着いた箇所は地層のようにも見える。

左手を向くと⑧反対側の通路に向かうようだった。

                      →ニサ2 円形の広間と赤い広間

関連項目
ニサ4 発掘現場
ニサ3 正方形の広間と櫓状建物の柱廊玄関

参考文献
OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年 
「週刊シルクロード紀行14 メルヴ・アシガバード」 2006年 朝日新聞社