お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2016年9月19日月曜日
イスタラフシャン1 ムグ・テパ遺跡
ホジャンドを出発。今日はペンジケントまで移動するが、まずイスタラフシャンに向かう。
Google Earthより
昨日同様、空はすっきりとしない。くじ引きで、今日も4号車に乗った。
タジキスタン第2の都市で古い歴史を持つホジャンドの現在の街を後にする。
秋に郊外に出ると綿の収穫を見るのは中央アジアに共通している。
そして羊の放牧も。
お尻が異様に出っ張った羊さん。脂肪がお尻にたまる種類で、それがバザールでパンシャンベ・バザール並んでいた。
またしても綿摘み。おばさんがこっちへ来いと両手を振っているので写真ストップとなった。
綿の花
なんとなくオクラの花に似ているなと思ったら、どちらもアオイ科だった。ということは、タチアオイも同じ種類だ。タチアオイはどんな実を付けるのだろう?
そして別の花たちが写真を撮れとポーズする。
右の花はタジク系だが、左の花は中央アジアのテュルク系っぽい。
地区の境界にある門をくぐってイスタラフシャンへ。
ずーっと平たい地形が続いている。ここも入母屋造の家が並んでいる。
道端の紅葉はすでに終わりかけている。
車はイスタラフシャンの市街地に入る前に、丘の上に登っていった。
これがムグ・テパ遺跡?出来たてやん。
ガイドのロマさん(右端に少しだけ写っている)は、2002年にイスタラフシャン2500年を記念して建造された門だという。
扉は閉まっていて、右の城壁の端から裏の遺跡へ向かった。
中央の円形のものはその公園。遺丘の縁が盛り上がっているのは城壁址、北西隅に最後の時代の遺構が露出している。
Google Earthより
ゾロアスター教の指導者ムグまたはムグパに由来する名をもつムグ・テパは、アケメネス朝のキュロス大王が砦を建てた。それ以来人が集まるようになった。
それをアレクサンドロス大王が破壊したという。アレクサンドロスがこの町のロクサーヌと結婚して、町を出て行く時に、人々が「ロクサーヌを連れて行かないで」と言った言葉が、イスタラフシャンという町の名前になった。
この地域は古来よりソグド人(東方アーリア系)の人々が住んでいたらしいが、そこに同じ東方アーリア系のペルシアが町を造って統治。アレクサンドロス大王の破壊後はソグド人が再び町を造った。
最初期には低い土の山があり、その上に町ができ、破壊された後に土を積んで地をならし、その上に新たな町を築くということを15回繰り返した結果、現在の高さになった。「テペ」「テパ」と呼ばれる遺丘はだいたいそんな風にできている。
ガイドの一人ロマさんの英語の話を添乗員のKさんが翻訳しながら遺跡を巡る。
取り敢えずは白いドラム缶のようなものを目指す。
近づくとドラム缶どころではない大きさのタンクの先までやってきた。
ムグ・テパは最終的には、13世紀のモンゴルによる破壊のままの状態で廃墟と化した。
何となく複数の部屋のある建物跡のよう。
かろうじて落ちずに残っている日干レンガ。
これも日干レンガの壁面。右中程に赤いものが。
日干レンガの間に焼成レンガ、それとも土器片かな。
出入口ほど大きくはない穴が3つ並んでいる。
火を焚いて煤が付着しているのか、破壊の時火が放たれたのか。
でも、あの下の方の丸い凹みは?
貯蔵用の大壺が置かれていたのかな。
乾ききった遺跡なのに、水の気配が。
少し色のちがう土の層が交互に重なっているのは?
道路を隔てた小さな丘には電波台になっている。
かつては庶民の住む場所だったという。
15の時代の異なる層といわれると、層のようなものがないでもない。
ホジャンド出身のロマさんによると、ホジャンドからイスタラフシャンまで75㎞あり、1500m間隔で狼煙台があったという。そういわれると、どこかで狼煙台らしきものが見えたような・・・写すことはできなかったのだが。
→イスタラフシャン2 コク・グンバズ・モスク
関連項目
ブンジカット(パンジカット)遺跡