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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年12月12日月曜日

国境を越えてハルチャヤン遺跡へ


ヒッサール遺跡見学後はウズベキスタンへ。
Google Earthより

国境までのM41号線は南側は平たい風景が続いた。

小さな町に到着後すぐにレストランへ。タジキスタン最後の食事は何かな?

通路でミンチ肉のケバブを焼いていた。
大きなパイを釜に貼り付けて焼いている。
レストランに入ると、すぐに出てくるのがナン。でも食べるのは一番最後。
なんと前菜が、先ほど窯に入れていた焼き肉まん?だった。熱々で持てない。
すぐ後に出てきたサラダを先に食べる。
焼き肉まんは皮が薄く、肉と野菜の中身がたっぷりだった。水餃子の入ったスープと共にいただく。
 ミンチ肉のケバブは生タマネギと共に。
最後にリンゴやブドウが出た。中央アジアの食事はOKの私、タジキスタンでも堪能しました。
ツアー旅行では、いつも「よく食べますね」と言われるが、今回はしっかり食べる人ばかりだったので、言われなかった。

再び移動。下校中の子供たち。

TALCOというアルミニウムの精錬工場の傍を長々と通る。アルミの精錬には大量の水が必要という。手前は綿畑。

国境に到着。国境は自分の荷物は自分で持って通過しないといけない。バスが小さかったので、4号車と皆さんに呼ばれていたサフディーンさんが別の車で運んでくれたが、ちゃんと荷車を用意してくれていたので、だいぶ楽になった。
ここでタジキスタン側のガイドさんたちや4号車とお別れ。
4号車が私の子供くらいの歳とは未だに信じられない。ロマさんはちょっと変わった顔立ちだった。
タジキスタン側の国境では速やかに手続きが終わり、ある程度の距離のある通路をごろごろスーツケースを運んでは建物があったが、人は誰もいないということが繰り返された。
問題はウズベキスタンの再入国手続きだった。男性側は係員が複数いるのでどんどんとはけていったが、女性側はまず係員がいない。やっと現れたのはたった一人。それでもタジキスタン人がウズベキスタンに入国するよりは早く回してくれたのだが、パスポートから荷物までを一人で行うので時間がかかる。その上、スーツケースをあけて、それぞれの荷物を1つ1つ丁寧に見ていくのでとても時間がかかる。それが終わったらX線検査機を通すので、更に時間がかかるのだった。
最後に並んだ私のスーツケースは、さすがに飽きたようで、簡単に終わったが、
Book?と言ってきた。
いつものように自分用に作ってきた複数のガイドブックを見せてあげたが、全く関心はない様子。
このように時間をかけるのは、上流のタジキスタン側がダムを造ろうとしていることに対する嫌がらせだとも言われているが、ある人は言った。
日本人の持ち物が見たいのよ。だって珍しい物をいろいろ持っているんだもの。そうでなければ、あんなにニコニコ嬉しそうに検査しないと思うわ
それもあるかも知れない。2時間はかかったが、長い方ではなかったらしい。

ウズベキスタンに入ったら、アムダリヤに面したテルメズまで行くことになっている。
Google Earthより

ウズベキスタンに入ると右側の景色が変わってきた。
学校帰りの女の子たち。登校服はウズベキスタンの方が可愛い。
デナウを通り過ぎてハルチャヤン遺跡へ向かう。
Google Earthより

M41号を走っていたバスは、右折すると農村の狭い道に入り込んでいった。
Google Earthより
バスが通れば人々は手を振ってくれる。道が狭くなっても、街路樹と水路はあって、アヒルがいたりした。
民家が疎らになって、畑が続くようになり、
また小さな集落を通って、その外れの小さな丘がハルチャヤン遺跡だという。
背の高い柿の木の近くでバスを降りた。

ハルチャヤン遺跡について、『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、古典古代の世界とは、ギリシャやローマだけを指すのではない。また、古代の文化は、フェイディアスやエウリピデス、ミロのヴィーナス、コロシアムに限られたものではない。奴隷制社会の最盛期にあたる起源前後の中央アジアでは、独自の古代文化が花開き、不朽の芸術作品が創作されていた。
ウズベキスタン芸術学研究調査団(UzIskE)は、その長年の調査活動の過程で、建築、壁画など造形芸術の分野における古代の遺宝を現代にもたらした。アイルタム、ハルチャヤン、カンプィル・テパ、ダルヴェルジン・テパなど、ウズベキスタン南部地域の遺跡から発見された遺物は、東洋諸民族の古代芸術史の新たな頁を開いたのである。
UzIskEによる最初の調査は、1960年、スルハンダリア州デナウ郡に位置するハルチャヤン遺跡で行われた。
遺丘(26X32m)の下では、3つの主室からなる宮殿址が発見された。先ず、6つの支柱台をもつ柱廊玄関があり、その奥に彫刻品で埋まった方形広間が続き、さらにその奥には、2本の支柱を持つ王の間があった。そして王の間を取り囲むように、回廊、居住部屋、守衛室、宝物庫が配置されていた。柱廊の柱は、木製であった為残存していなかったが、コリント式柱礎、アッチカ式柱礎が in suti(本来の場所)で出土したという。
Google Earthより

セルゲイさんの説明を聴きながら、まずは南側から見学。左前方にギリシア風の柱礎が3つ。
遺跡の本や地図などはないが、セルゲイさんが本を広げながら説明してくれる。
柱礎は横一列に6本並んだ柱廊玄関のものだった。その内半分が残っているが、図版の柱礎は低いのでアッティカ式(コリント式?)かな。
下部の丸い木柱は、これまでの中央アジアの旅行でよく見かけた。この遺跡ほど古いものはなかったが、現在残っている柱を基に想像復元したのではないかと思われる。
子供の頃、発掘していた遺跡から遺物が出土するのを見て感激したセルゲイさんは、新聞記者を経て、遺跡のガイドをしているのだという。だから大変熱心、というよりも、自分の知っていることを一人でも多くの人に伝えたいという熱意にあふれた人だった。
これはコリント式柱礎かな。

ここに3つの主室からなる宮殿があった。それは北から南へ一列に並んでいたのだろうか。
奥の壁の向こう(南側)にも柱礎が残っている。

宮殿は日干レンガで建造されていた。部屋の中には2つの穴が。試しに掘ってみたが、何も出てこなかったということだ。
こちらの部屋にあるものは、
レンガ色の土管が埋め込まれているのだった。
足を踏み入れた部屋の床が、今居る高さだったとしたら、不思議な位置に水道管があったものだ。
床にはパフサと呼ばれる大きな粘土ブロックが並び、壁には一定の大きさの日干レンガが積まれている。
遺跡を見学していると、近所の子供がやって来る(無理矢理パノラマ合成したので、幅広になってしまった)。遊びに来ているうちに遺跡に興味を持つようになって、将来は考古学者になってほしいな。
遺構を東側から眺める。下の白い服の人がいる部屋に2つの穴があった。
南側に回る。
アネモメトリ-風の手帖-というホームページの知らないまちを発掘する#9根木智宏という頁に、草が生えていない、もっと遺跡らしい画像がありました。柱礎は動かさずにそのままあるというのがわかります。

北側の遺丘へ。こちらは一般民の住居があったところ。
かなり深く掘られている。
部屋または通路の開口部は、アーチ形になっている。
日干レンガよりも大きなパフサを積み重ねているみたい。
何の標かわからないが、セルゲイさんのいるところを目指す。
4本の柱の中央には少し凹んだところがある程度で、頂上を表したものだろう。
この区画から様々な塑像の頭部が出土したという。
例えば、こんな人物や
このような顔が出土した。
このような人物は、一人一人の像ではなく、群像として制作されたのではないかと推測されているという。真ん中の男性像が光の反射でよく写らなかった。
真ん中の男性像がよ

ペンジケント遺跡の方が、分かり易かったかな。
続く右側の大きな穴。
この宮殿遺跡には城壁がなかったのかな。人が住まなくなった理由は何だったのだろう。


 ヒッサール遺跡2 城壁の中←  →「加藤の家」そしてダルヴェルジン・テパ遺跡

関連項目
ウズベキスタン国立美術館1 ハルチャヤンの出土物
ハムザ記念芸術学研究所1 ハルチャヤン宮殿遺跡の出土品

※参考文献
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
セルゲイさんが見せてくれたロシア語の本