お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年12月21日水曜日

ズルマラス・トゥーパ


テルメズはアムダリヤの右岸、左岸はアフガニスタンで、南方約60㎞のところにマザリシャリフやバルフがある。
テルメズについて『玄奘三蔵、シルクロードを行く』は、テルメズの古名はタルミタ(Tarmita)であるが、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』にみえるタラマエタ(Taramaetha)に由来するという。タラマエタとは「川向こうの集落」という意味である。ヘレニズムの時代にオクソス河の北岸に建設された衛星都市のひとつでもあった。アレクサンドロス大王の死後、セレウコス朝の初期にもタルミタは大きな役割を果たしたことが、アンティオキア・タルミタの名で中世ペルシア語の銘文にみられたり、7世紀の古地図にも同じ名が記されていることなどによってもわかる。アンティオキアとは、セレウコス朝の第2代の王アンティオコスの名にちなんだ都市である。アンティオコスの母、セレウコスの正妃アパメーは北バクトリアの勇将で、アレクサンドロスに最後まで戦いを挑み続けたスピタメネスの娘であった。アンティオコスがタルミタに自分の名を冠したのは、たんに戦略的に重要な前哨基地としてだけではなく、母ゆかりの地の城塞として大切に扱ったからであろう。グレコ・バクトリア王国時代にソグディアナのデメトリアスと呼ばれたのもこのテルメズであったという(ウィリアム・ターン『バクトリアとインドにおけるギリシア人』1938年)。サンスクリット語で伝えられている「ダルマミトラ(Dharmamitra)」はこのデメトリアスのことであり、そしてダルマミトラ(インド古代の俗語であるプラクリット語ではダルマミタ)こそタルミタの原音であったとまでターンはいっているという。

9時にホテルを出発。線路を越えたところで検問。その後どんどん郊外へ。
Google Earthより

ある地点でバスは右折。まばらに家屋のあるところで停まった。
少し歩いて遠くに見えてきたのは土の塊だった。
同書は、呾密国(テルメズ)は「東西600余里、南北400余里」あり、国の大都城は「周囲20余里」あった。そして玄奘はここで天山を越えてから初めて本格的な仏寺を目にしたのである。「伽藍は10余ヵ所、僧徒は千余人いる」と記し、同時に多くの窣堵婆(ストゥーパ、塔)が存在していたことも記録している。崩れながらもなお現存するズルマラの大塔も仰ぎ拝したにちがいない。近年日本政府がユネスコに拠出した日本信託基金によって修復されたファヤズ・テペや現在も発掘が続けられているカラ・テパ(黒い丘)の大塔を配する壮大な伽藍もまた玄奘は訪れたと思われる。これらの寺院からの発掘品の多くは2-4世紀のもので、玄奘が来たときはすでに廃墟であったというのが考古学者たちの見解だが、発掘後の伽藍の様子を見れば、7世紀にはまだ周辺の仏寺や塔は残っていたと想像されるという。
この土塊こそが、前田氏が玄奘三蔵が仰ぎ拝しただろうというズルマラ・ストゥーパだ。
そのれにしても、手前の農地を耕す機械のたてる土煙のすごいこと。ストゥーパが隠れてしまうほどだ。

ここで地図を見せながらセルゲイさんの説明が始まった。
仏教はインドで生まれたが、高い山脈に囲まれているので、その間の低い所を通ってこの地に伝播するしかなかったのです。仏教は中央アジアにまず伝わり、やがて中国へ、そして日本へと伝わったのです
このストゥーパの造立年代は様々である。『BUDDHISM AND BUDDHIST HERITAGE OF ANCIENT UZBEKISTAN』は後1-2世紀、『埋もれたシルクロード』は後1世紀という。
確かにこの地図を見ると、ガンダーラから現在のアフガニスタン、そしてウズベキスタン南部に人の通行できそうなところが繋がっている。
そして彼は言った。
インドから伝わった仏教のストゥーパと、遙か東方の中国から伝わった絹。絹糸を出す蚕の食べる桑が見られる場所。まさしくシルクロードの賜物です。さあ、ここからその写真を撮って下さい
かつては生糸の生産が盛んだった日本なのに、近くにその産地がなかったせいか、桑の木に馴染みがないので、並木が桑というのは中央アジアの各地で見られるものの、見る度に新鮮である。
でも、ここからは、その鍬の木立が邪魔してストゥーパの全貌がカメラに写らない。その両側に2箇所並木の隙間があるのだが。

予定ではズルマラの大塔は遠望するだけだったが、それは畑に農作物がまだ植わっている時の話で、すでに刈り取られた今はストゥーパまで歩いて行けるのだそうな。願ってもないことだ。
ボコボコの畑を歩き易い場所を選んですたすたと歩を進めるセルゲイさんの後を付いていく。
東から来た桑の木と、南から来たストゥーパを一緒に写すというのはなかなか難しい。
桑の並木の向こう側は水路になっている。農地に水を入れるために、この時は水量を増やしていたらしく、セルゲイさんはこの水路を越える箇所を探していた。
灌木から見えている人は、グループとは別行動をとって、自分だけの写真を撮るのを常としている方だった。どんな写真を撮られたのか、見せて戴きたいものだ。
この時もずっと手前でこの水路を渡ってしまっていたが、我々がそこに戻るのも時間がかかる。
ストゥーパには縦に深い亀裂ができている。元の姿はどんなだったのだろう。
すぐそこなのに、なかなか近づけないのだった。

やっと渡って開口部が見える地点まで回り込んで写したが、写真の下方に汚れが。
実は水路の狭い場所が見つかったので無事徒渉できたのだが、その後で粘土質のぬかるみに入り込んでしまった。そこから抜け出す時に手を汚し、その手でカメラを守ろうとして、レンズに触れたのだろう。
無理をして渉らなくても、少し先に通路はあったのだ。そこならぬかるみにはまることはなかっただろう。
Google Earthより

この入口のような穴、人と比べても結構大きい。
しかし、日干レンガが今にも落ちてきそう。
奥を写すとやっぱり行き止まり。黒いのは火を焚いた煤?

仏塔を右繞ではなく、左繞してしまった。
元はドーム型の頂部に円筒形の胴部、その下におそらく正方形の基壇という形だったのだろう。
真裏側にはやっぱり亀裂が走っていた。左下の出っ張ったところまで胴部はあったのかな。
どこまでが仏塔で、どこからが基壇なのか。
無数にあいた穴は、補強のために木の枝を挿したものかな。
これで一周。もう少しで真っ二つに割れてしまうのではないかと思うほど。
日干しレンガは、すでに土に還っているものもあるが、その姿を今も留めているものもある。
日干レンガが露出しているが、その下側は土が付着している。
間の接着剤にした土がボロボロと落ちかけている。これが雨で溶けて、下側の表面に付いていくのだろう。

中外日報というホームページで、ズルマラ・ストゥーパの記事を見つけた。2016年1月8日付の仏教伝播の聖地保護へ イスラム圏の巨大仏跡という記事で、立正大学がズルマラ仏塔の調査・保存に乗り出したという。これ以上崩壊しないで残せることが分かって一安心。

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関連項目
テルメズ考古博物館1 1階展示室

※参考サイト
中外日報の2016年1月8日付の仏教伝播の聖地保護へ イスラム圏の巨大仏跡

※参考文献
「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 前田耕作 2010年 岩波書店(新書)
「BUDDHISM AND BUDDHIST HERITAGE OF ANCIENT UZBEKISTAN」 2011年 O'ZBEKISTON
「埋もれたシルクロード」 V.マッソン著 加藤九祚訳 1970年 岩波書店(新書)