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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年12月5日月曜日

ヒッサール遺跡1 メドレセ


首都ドゥシャンベを8時に出発、まずはヒッサール遺跡へ。
Google Earthより
ホテルを出て間もなく、昨日は逆光でしか見えなかったイスマイル・ソモニ像が見えた。朝日に照らされていたが、停まらずに通過してしまったので、どんな像かよくわからず終いだった。
とにかく、イスマイル・ソモニという9世紀末から10世紀初期にサーマーン朝を統治した人物ということで、ウズベキスタンで民族の英雄とされていて、その一族の墓廟であるサーマーン廟(イスマイル自身は埋葬されていない。以前はそう思われていて、私が最初に知ったときは、イスマイル・サマニ廟と呼ばれていた)もウズベキスタンのブハラにある。その焼成レンガで築造された美しい廟を見たいと思ったのが、中央アジアに足を踏み入れるきっかけだったほどだ。
実際には、ウズベキスタンでよりもタジキスタンの方が、銅像が各都市にあったり、通りの名になっていたりと、ソモニを通貨単位までして、その思いは強そうに感じた。
10分も走ると郊外に出て、一帯に果樹園が広がっていた。
南側の平たい農地の向こうに山がみえてきた。
ここで高速を降りて南下。遠くに飛行船のようなものが見える。
室内競技場だろうと思っていたが、なんとチャイハネ。しかも一度に200名以上入れるという。
南側まできて、やっと縞模様のついたハミウリだと確信。

ヒッサールの町に入り、
遺跡に到着。

まず目に入るのは左の真新しい建物、モスクではない。広々とした道、その向こうの焼成レンガの建物、遠くに聳える山。
道路に車は通っていないが、ロマさんは歩道を歩いて行く。
右手に現れたヒッサール要塞は新しそう。
前方に見えた建物は新しいメドレセだった。

まずは古いメドレセをここから眺める。
Google Earthより
左からキャラバンサライ跡、メドレセ、右手前は体を浄める場所という。モスクはなかったのかな。
要塞の周壁の外側、低い場所に人々の暮らしがあったのだ。公園として整備されている広場には、おそらくバザールなどがあったのだろう。

キャラバンサライ跡は、店舗や宿泊できる部屋などが同じ広さの区画で残っている。

古いメドレセへ。
正方形から八角形、円形からドームが架かり、その隣には低いミナレットがあった。
門のファサードには何もない。目立つのは地中から吸い上げられた塩分の白。古代テティス海の地層が現れた景色には目を見張るが、もう一方ではこんな負の遺産も。
やっぱり木の扉には、一面に浮彫がある。
古いメドレセの中庭の周囲には一階建てのフジュラ(神学生の寮)が並んでいる。
その中は博物館になっていた。
まず、壁面の地図で、このヒッサール遺跡についてジャムシェットさんの説明があった。
西のブハラから続く交易路の要衝だった町という。
ため池近くの城壁には西門があり、ブハラからの隊商は西門から入ったという。
やっぱりこの地図よりもGoogle Earthの方が分かり易い。
やはり遺丘(テパ、テペなどいろんな言葉がある)になっていて、城壁に囲まれている。2基の見張り台のある城門を入って東側は小高くなっていて、そんなところにシタデル(王の居城)、左側の低地はウシュクホランという王のラクダを飼う場所、北辺はアスカルホランという300人の兵士が常駐する場所があった。
そして説明は地図の右下端へ。
独立したミナレットが2基、建物はたくさんある。
中でも、この3つの小ドームのある建物は8世紀のモスクで、石で建てられたという。
8世紀と言えば、中央アジアがイスラーム化していく最初期にあたる。シリアという石材の豊富なところからやって来た工人が建てたということだろうか。ドームはどんな風に架構されていたのだろう。
そして今いる古いメドレセ周辺。メドレセの小ドームはよく分かる。

タジキスタン最後の見学で、やっとタジキスタンの地勢が分かった。
北のホジャンドから高い山々を2つのトンネルを抜けて首都ドゥシャンベにやってきて、ヒッサール谷からウズベキスタンへと出て行くという今回のコースは遺跡の旅だったが、国土の97%が山だというタジキスタンのほんの一部分に足を踏み入れたに過ぎない。
アムダリヤは、バフシュ川との合流地点より上流はパンジ川と呼ばれ、アフガニスタンとの国境となっている。そんな川沿いに民家泊をしながらワハーン渓谷を旅するのもなかなか良いそうである。どんな花が咲いているのだろう。
民家泊とは言え、ゲストハウスになっていて快適だという。旅した人に写真を見せてもらったが、その天井が、なんと、私の憧れのラテルネンデッケだった。泊まってみたい!
ジャムシェットさんは説明を続けた。
水資源が豊富なタジキスタンだが、冬季は川の水が凍るので水不足となり、電力が不足するため、ダムを造ることになったが、下流にあるウズベキスタンが反対しているのだそう。

古いメドレセは博物館になっている。土器・陶器が展示されていた。

ランプなど
ランプには無釉のものと緑色の釉薬のかかったものがある。
手前の丸いランプはローマ時代のものを思わせる。
文様のある器も。
大きな葉が線刻されていて、釉薬は黄瀬戸の油揚手のような風合いが。
こちらは勢いのある細い線刻の上に三彩風に釉薬が流れている。
岡山市立オリエント美術館のホームページにある収蔵品検索で陶器を検索してみると、ペルシア三彩に線刻の上に三彩釉をかけて焼成した作品がたくさん見つかったが、だいたい11世紀頃のものだった。これが唐三彩や遼三彩、宋三彩とは思えないが、ペルシア三彩の可能性はある。

土器のゴブレットも。
無釉の雑器のようで、形はガラス器か金属製のものを真似たよう。
斜めに縞模様があるのは、薄く施釉したからか、練り上げ手か?

下の方に面白いもの発見。
首の長い動物の形の水差しは、形だけでなく、文様も細かい。

金属器のデザインも繊細だ。
他には農具や伝統的な刺繍布スザニなども展示されていた。

その後メドレセの中庭を巡る。角には3つの扉。うまく3つの部屋を造ったのだろう。



入口のドームは妙な形をしている。
そしてぽつんと置かれた時代不詳の柱頭。

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※参考サイト
岡山市立オリエント美術館収蔵品検索:陶器