お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2017年5月29日月曜日

ヤズド マスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)


ヤズドのマスジェデ・ジャーメは街の中心部にある。
Google Earthより

イマーム通りを長々と走ったバスは、時計塔のある角で左折し、
マスジェデ・ジャーメ通りに入ると、遠くに2本のミナレット(ドゥ・ミナール)のある門が見えてきた。
ピーシュターク(門構え)だけでも細長いのに、その上に一対のミナレットが建っている。
マスジェデ・ジャーメ近辺
Google Earthより
バスを降りて歩き始めると、バードギール(風を取り込む装置)と、奥に修復中のドームが。モスクではなく、セイード・ロクナディン(Seied-Roknadin)廟。

マスジェデ・ジャーメ ムザッファール朝時代(14世紀前半)
『ペルシア建築』は、多くの重要なモスクがそうであるように、当モスクも、時代や様式や保存状態がさまざまに異なった諸建築の複合体の中にあり、その焦点といった位置を占めている。敷地はササン朝時代の拝火神殿の跡であったが、現存する建物の主要部分は1324年に着工され、以後40年間にわたって整備されたものであるという。

『イスラーム建築の見かた』は、高い門構えの両側に建つ一対ミナレットのことをドゥ・ミナールと呼ぶ。ドゥはペルシア語で2を意味する。その初例は12世紀半ばのセルジューク期のイランまで遡れるが、完全な形では残っていない(イマーム・ハサン・マドラサ)。入口イーワーン(前面開放広間)を囲むピシュターク(高い門構え)の上に対称に2本の塔を建てる。機能的には1本で用が足りていたはずなので、美しさを求めて2基一対の形に変化したのである。
14世紀にはイランがモンゴル族の破壊から立ち直り、イランでもドゥ・ミナールは流行した。モスクやマドラサの入口を飾り、入口や塔の高さもずいぶん高くなるという。
非常に細長いピーシュタークは二階建てで、その上にドゥ・ミナールが建っている。そのためか、補強にゴシック様式の飛び梁に似たものが右側に見える。
『COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE』は、1364年に建立され、最初にタイルで覆われたのが1375-76年で、まだ日干レンガや浮彫ストゥッコのパネルが露出していた。1406-17、1432-33、1457-59、1470-71と再開され、17世紀、そして今日に至るまで続いたという。
建物は1324年に着工し、40年わたって整備され(『ペルシア建築』より)、1364年に完成したが、タイルを貼り始めたのが1375年ということになる。
ピーシュタークのタイルは古そうだが、ドゥ・ミナールのタイルにはバンナーイも見られる。バンナーイとは、長方形のタイルを切断することなしにそのまま用いたモザイク・タイルである。ティムールは大建築を短期間に美しく覆い尽くすために、とりわけ装飾プログラムをパネル化する際に、大画面に適応可能なこれらの技法を積極的に採用した(『イスラーム建築の見かた』より)といわれるもので、主にアッラーやムハンマドなどの文字を幾何学的に大きく図式化したもの。色タイルが貴重だった頃に、ムカルナスの縁やインスクリプションだけに用いた空色嵌め込みタイルとは全く異なる。
ピーシュタークは全面モアッラグ(モザイクタイルのペルシア語)で覆われている。
上階にムカルナス。
下階はタンパンの下に出入口。
遙か上のムカルナス
右側面の壁龕
重厚な幾何学文様の扉
入って上を見上げると、透かしが入っているのかに見えるはめ込みタイルの小さなドーム。
八角形のドームにアーチ・ネットのリブが浮かんで籠の中にいるような。
頂部の明かり取りの上にもはめ込みタイルの小屋根がつく。
振り返ると
暑くて大変だろうが、黒い服をまとった女性のシルエットは素敵。
その壁面にはこんな浮彫漆喰も。タイルで覆う前のものかも。

中庭に出て右手(正確には北東だが北側とする)
一階建てで角柱の尖頭アーケードが巡っている。近年の修復のよう。
イスファハーンのマスジェデ・ジャーメの変遷で見ると、ブワイフ朝期でも続くセルジューク朝期でも、モスクは平屋根だった。
西回廊
東回廊
東回廊の南端に表門があった。やはり、片側だけ飛び梁のようなもので支えられている。
表門と礼拝室

礼拝室のイーワーンはイスファハーンのマスジェデ・ジャーメ北イーワーンと同じように長い。
礼拝室へは靴を脱いで入る(この2枚は北門から出る時に撮ったので、夕刻の礼拝に来た人々が写っている)。
ヴォールト天井は文字を図案化した空色タイルで埋め尽くされている。奥のドーム室の最奥部にミフラーブが見えている。

そしてドーム。
空色だけでなく、白色、コバルトブルーの色タイルが、焼成タイルに嵌め込まれているというよりも、面積的には変わらないくらい。

四隅のスキンチまで入った写真は撮れなかった(『世界美術大全集東洋編17イスラーム』より)。
これまで見てきたドームは、せいぜい小さな明かり取り窓があるだけだったが、このドームは礼拝室の長いヴォールトと同じ高さに開かれた、同じ幅の3つの尖頭アーチ窓がある。
このように見上げると、8つの尖頭アーチがドームを支えているように見える。
残念なことに、他のドームでは写してきた、ドーム半分と移行部という写真もない。いったい何をしていたのだろう。大きく開かれた窓が写っているのはこの写真だけだった。
スキンチ。八角形から十六角形にするために、浅いムカルナスを3つ(下1上2)積んで、一つの面をつくっている。だから、8つの尖頭アーチが直接ドームを支えているのではなく、正方形→八角形→十六角形→円という風に移行して、その上にドームが架構されている。
側壁にはタイルで覆われた、まるで門構え(ピーシュターク)のようなアーチ窓。厚い壁に開いた尖頭ヴォールト天井の奥には交差ヴォールトが見え、更に尖頭ヴォールト天井があって、続きの部屋がある。
そしてその上は、もっと大きな尖頭アーチの窓になっている。
その上部の窓の下端。これがドームを支える東西の窓枠の尖頭アーチの下端。

『ペルシア建築』は、ファイアンス・モザイクで装飾されたきわめて美しいミヒラーブ(1365年)が見られるという。
確かにミフラーブ全体が色彩豊かなモザイクタイルで覆われている。詳しくは後日
『砂漠にもえたつ色彩展図録』で深見奈緒子氏は、シャーヒ・ズィンダーにイランで熟成した植物文のモザイクタイルが出現するのは1372年建立のシーリーン・ビカー・アガー廟が最初であるというが、『中央アジアの傑作サマルカンド』は、1385-86年の建立としているこういう場合、発行年の新しい文献に書かれている方を選ぶことにしているので、そうなると、シリング・ベク・アガ廟以前のイランで制作されたモザイクタイルということになる。古いイランのモザイクタイルをやっと見つけた。
ミフラーブのムカルナス
サファヴィー朝期のものは、ムカルナスが曲面になっていたが、それよりも前の時代のムカルナスは、このように小さな平面を組み合わせることによって、曲面になるような工夫が見られる。
その下部は三面で構成され、両端は人の背丈ほどの切り込みがある。そして床にはシーア派で高僧が説教する凹みもある。ムザッファール朝はシーア派だったのだ。
左の開口部から覗いてみると、狭い通路が続いていた。

『ペルシア建築』は、主礼拝室の左右両側にはそれぞれ副礼拝室があって、両室とも、軸線に対して直角に架け渡された横断ヴォールトを特徴としているーこの種の横断ヴォールトはササン朝時代に出現したもので、広いスパンを十分な強度で架構するための卓抜な工夫であった。高い側壁は、これにより、構造的な任務から解放されるので、ヴォールトの両端部に窓を設けることもできたという。
主礼拝室との西副礼拝室の間を通る。何でこんな写真しかないのか・・・
軸線方向のヴォールト天井だが、3つの面で構成された、複雑な形で、途中に4点星のある小さな交差ヴォールトが入っている。
この壁面は素焼きタイルが嵌め込まれているのだと思っていたが、タイルの切れ目がない。
この文様単独のものは、イスファハーンのマスジェデ・ジャーメ南東礼拝室の円柱にもあった。
こちらのほうは平レンガを縦にしてあるようにも見えるが、X字形の部品が菱形に並ぶように浅く線刻しているようでもある。
この文様はクニャ・ウルゲンチのクトゥルグ・ティムールのミナレット(1320年代)にもこの文様がある。

そして、「窓」から見る主礼拝室北西の尖頭ヴォールトの壁。
やっぱりタイルあるいはレンガの切れ目が見当たらない。表面の浮彫漆喰を彩色しているとしか思えない。
ゾロアスター教由来のそれぞれに意味のある文様をはめ込みながら、線でそれらをつないで、大きな幾何学文を構成している。中央には文字や植物文、小円を並べたものなど、二つとして同じものはなさそうで、当時の工人の建物の建造だけでなく、細部の意匠へのこだわりが感じられる。
レザーさんは説明しながらどんどん行ってしまうので、どの文様にどんな意味があるのかは定かではない。
それに、ゾロアスター教由来の文様は、ウズベキスタンをはじめ、中央アジアの国々でも見てきたが、人によっても文様の示すものが違っていたりするので、正確なところはわからない。
その上部及び奥の小ドーム(ドーミカル・ヴォールト)には空色嵌め込みタイルの装飾。その奥にはシャベスタン(副礼拝室)の白い交差ヴォールトは見えるが、横断ヴォールトには気付かなかった。
小ドームの両側の尖頭ヴォールトも空色嵌め込みタイル。

タイルや漆喰装飾を写していてどんどんと遅れをとってしまった上に、紐靴を履くのに手間取ってしまい、西礼拝室(シャベスタン)の中は見られなかった。
北(北東)のアーケードから中庭と主礼拝室を眺める。

マスジェデ・ジャーメでは、素晴らしいモアッラグ(モザイクタイル)を堪能しました。
それについては
ヤズド、マスジェデ・ジャーメのタイル1 表門
ヤズド、マスジェデ・ジャーメのタイル2 主礼拝室
ヤズド、マスジェデ・ジャーメのタイル3 オリジナルと修復

ヤズド ゾロアスター教神殿(アータシュキャデ)←  →ヤズド 街と隊商宿ホテル

関連項目
イスファハーン、マスジェデ・ジャーメの変遷
14世紀、トゥラベク・ハニム廟以前のモザイク・タイル

※参考文献
「イスラーム建築の見かた-聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「COLOUR AND SYMBOLISM IN ISLAMIC ARCHITECTURE」 1996年 Thames and Hudson Ltd.London
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館