2020年に発行された青木健氏の『ペルシア帝国』(講談社現代新書2582)によって、2016年に訪れたパサルガダエの建造物について、従来とは異なった事実が明らかとなりました。
下記の記事はそれ以前の文献や説明に基づいて作成したので、新しい記事パサルガダエの遺構に新説も併せてご覧下さい。
アケメネス朝時代の最初に築かれた宮殿のある広大なパサルガダエの遺跡の南西端に⑧キュロス2世の墓、その北東に⑦キャラバンサライがある。
Google Earthより
⑦キャラバンサライ
車窓から眺めるに留まった。
サファヴィー朝のアッバース1世が建設したメイボドのキャラバンサライや、郊外にあったキャラバンサライ、そして、デシールのセルジューク朝期のキャラバンサライなどと比べると規模が小さく感じるのは周壁が残っていないせい?
遺跡にあった地図ではムザッファル朝(14世紀後半)のキャラバンサライという。
建物も周壁も石造り。かといって、尖頭アーチでもない・・・周辺に転がっている石を適当に積んだ感じ。でも、外壁の開口部からのぞく影には尖頭アーチらしいものも。
『ペルシア建築』は、このパサルガダエには、初期のジッグラトとともにムサシールの神殿をも想起させるような、切妻屋根を持った建物があり、その中にキュロス大王が葬られている。この神殿=墓廟は、上へゆくに従って順次に高さが減ずる6つの段、いわば小型ジッグラトの上にそびえて立つ。その力強さは大きさの問題を超越しているように見える。現在、この唯一の耐久的建築を例外として、パサルガダエはほとんどが廃墟と化しており、在りし日の状況を偲ぶ手掛かりは乏しいという。
同書の平面図では、塀また壁に囲まれて、1辺8本の円柱が墓のある敷地に並んでいる。回廊があったのだろうか。
説明板は、周壁内部は726㎡、16mの高さの円柱が各辺8本ある広間があった。円柱は2X2mの黒い石を2段積んだ台座(現在は藁と土を混ぜた上塗で保護されている)があった。4つの扉口が守衛室の付いた広間に繋がり、日干レンガに藁と土で上塗りした高い壁で囲まれていた。一本だけ付け柱が残っていて、エラム風の服装で、エジプト風の王冠を被った像があり、その上方には三カ国語で「我はアケメネス家のキュロス王なり」という楔形文字が刻まれている。
1864年頃この部分は破壊され失われたという。
遺跡にあった平面図
説明板は、長年ソロモンの母の墓とされていたが、1820年にキュロス大王の墓であることが判明した。アレクサンダーという名の考古学者は、王の庭園のような広大な敷地の中央に立っていたという。
墓は高さ11m。大きな切石で造られていて、長いものでは7mもあり、2つの部分から成っている。一段ずつ小さくなる6つの段がある基壇は、下の面積が164.20㎡。厚さ1.5m、高さ2.11mで、3.17mの小さな切妻屋根のある墓室。内部への唯一の入口は北西にあり、当初の石製扉は失われている。キュロス2世の防腐処理を施した遺体は、黄金の玉座の上の黄金の棺に安置され、その武器なども副葬されたが、全てはアレクサンドロス大王のペルシア侵攻の時に破壊されたという。
しかし、『図説アレクサンドロス大王』では、アレクサンドロスはここを訪問し、慣例に従って女達一人ひとりに金貨を与えた。またキュロスの墓に大きな感銘を受けた。6年後にインドから帰還して再びここを通過した時、キュロスの墓が荒らされているのを発見し、部下に修理を命じているという。
北西方向に墓の入口がある。遺跡の平面図からもわかるが、切妻ではなく、頂部が縦に平らな部分があり、台形をしている。
やはり、タッレ・タフト要塞の積み石と同じように、T字形の石の継ぎ目には似た形の穴があり、現在は石のようなもので塞がれている。槍か矢で射られた痕も数箇所。
墓廟の周囲を時計回りに写していく(意味はない)。
イランを旅する時は、まずスカーフ、そして腰が隠れるくらいの上着など体を隠す服装が良いとされているが、スキニーの女性も普通に見かけた。
塞いでいるのは大理石のよう。ということは、カバーというよりも装飾のために穴をあけいていたのかも。
蓋石は、下に厚い板石が2枚、上中央にその半分くらいの厚さの板石を載せている。小さな石材で面が真っ直ぐになるように整えている。
子供連れの人が多いが、イランでも少子化が進んでいるのだとか。
この墓廟の石材は何だろう?
夜はライトアップされるようだが、ここまで見に来る人はいるのかな。
修復で穴を埋めるだけなら、大理石でなくても良いと思うが、単に近くで幾らでも採れるからということかも。
背後に駐車場があり、その向こうに遺跡への入口と小さな町がある。
これで本日の見学は終了。
現在はガラス板で結界された墓廟だけが残っているので、円柱は2X2mの黒い石を2段積んだ台座(現在は藁と土を混ぜた上塗で保護されている)があった。4つの扉口が守衛室の付いた広間に繋がり、日干レンガに藁と土で上塗りした高い壁で囲まれていたという説明板の内容に合わないが、『ペルシア建築』には整備される以前の遺構の図版があった。
キュロス大王の墓廟は、かなりの歳月は、現在のようにポツンと立っているのではなかったのだ。
一路シーラーズへ。
Google Earthより
珍しいことに、鉱石を積んだ貨物列車が通っていく。
相変わらずの山々、そして珍しくガードレールのある道路。
羊の群(ピンボケ)も。
傾いた地層が柔らかく浸食されていく山並み。
遠くの町には観覧車!
それでもシーラーズに入った訳ではなく、まだこんな荒れた山も。
それでも新しい住宅が見えてきて、市街地まではそう遠くなさそう。
郊外から市街地へと変わるカーブの右手にいきなり現れた斬新な建物はシーラーズ・グランド・ホテルとか。
シーラーズを北西から南東に流れるホシュク川を渡る。水は流れておらず、両岸には道路さえある。ちょうど帰宅ラッシュに巻き込まれてしまった。
やっとホテルに到着。建物へは裏口から入って庭を歩いて入口へ。
部屋には大きなベッド。頭上にエアコンがあったので涼しく眠れたが、向かい側の壁にエアコンが取り付けてある部屋もあって、付けると寒く、切ると暑かったとか。
部屋は南向きで、ベランダから眺めた景色。左端はカリム・ハーンの城塞。
夕食はホテルの中庭で
まずはサラダから。これで一人前、もちろん完食。続いてスープ
ペルシア語ではドゥーフ、トルコ語ではアイランと呼ばれるヨーグルト飲料(薄い塩味)は、日本ではなかなか飲めないので、ほぼ毎食飲むことにしている。
メインは鶏肉のケバブ。イランの米は軽いが、他の物を食べてお腹がいっぱい。
デザートはプリン、別腹です。
ピントがいまいちだけど、満月かな?
パサルガダエ2 宮殿← →シーラーズで朝散歩
関連項目
キュロス大王の墓はジッグラト風
アケメネス朝の王墓
パサルガダエ1 要塞と拝火神殿
※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのパサルガダエ
※参考文献
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「図説ペルシア」 ふくろうの本 山崎秀司 1998年 河出書房新社
「図説アレクサンドロス大王」 ふくろうの本 森谷公俊著・鈴木革写真 2013年 河出書房新社