お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2017年7月31日月曜日

タンゲ・チョウガーン(Tang-e Chowgan) サーサーン朝の浮彫


今日はシーラーズからアフワーズへの長距離移動の日。出発は午前7時だったので、さすがに朝散歩はできなかった。
Google Earthより
まずはビーシャープールへ向けて山間部を疾走。
Google Earthより
澄んだ水の流れる川、これがホシュク川?
またしても古代テチス海の地層のある山々。
これからザグロス山脈へと入っていく。
背中にトサカのある恐竜のような山が出現。
と思ったら、ここで写真ストップ。
立っている先には木が生えたり、石ころが転がっていて遺跡風。
しかし、ここで重要なのは、下の方に見えている両側の山の間。
レザーさんは、ここからアレクサンドロス大王がやってきて、ペルセポリスの方に攻めていった、歴史的に重要なところなんですよ。アブルハヤートといいます。
再び屏風のように続く山並みを見ながらの移動。
そしてレザーさんの話は続く。1万人のマケドニア軍は家族も連れてやってきて、スーサを征服して1年間滞在しました。その後ペルセポリスへ行きました。ペルシア人は25万人もいたのに勝てなかったんです。
再び切り通しが見えてきた。さっき停まって撮影した、アレクサンドロス軍が通っていったアブルハヤートだ。
バスはどんどん高度を下げて、アブルハヤートの切り通しへ。
しかし、後日『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』を読んで、このルートではないことが分かりました。
そして平地に下りてきた。
新しい町もあれば、郊外には羊の群もいる。
山も険しさがなくなってきた。
町を通り過ぎて
ナツメヤシも現れ、

ビーシャープールに到着。
Google Earthより
宮殿址は背後にあり、正面はタンゲ・チョウガーン(チョウガーン渓谷)。サーサーン朝期の浮彫があるという。
わずかだが水の流れる小川を挟んで、向こう岸の地層が斜めになって、スパッと切れたような崖がすごい。
地層だけが目に入っていたが、よく見ると、人工物がある。ひょっとすると城塞?こんなところにも!
ガイドのレザーさんに尋ねると、事も無げに「城塞です」。遺跡だらけ、城壁や城塞だらけのイランでは、驚くほどのものではないらしい。
丸みのある石を積み上げて造られている。明かり取り窓か矢狭間の並んだ壁や、丸い監視塔の痕跡も。

川の北岸を歩いていく。

シャープール1世(第2代、在位241-272)の三重の勝利
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、中央のシャープール一世のところには3人のローマ王が描かれているという。
崖のある程度上の、しかも曲面に刻まれているこの場面は、タンゲ・チョウガーンでは一番大きい。
『古代イラン世界2』は、シャープール1世はローマ帝国と三度戦い、戦況を有利に進めていたが、それを誇示した戦勝図をナクシェ・ロスタムとビーシャープールに残している。後者では国王と敗者のローマ皇帝たちを中心にサーサーン朝の騎馬軍団が描写されているが、多数の軍勢を描写する方法は上下遠近法、重層法といった西アジアの伝統的絵画様式が用いられているという。
シャープール1世は上から3段目、中央からやや右寄りに登場し、その左側の5段にペルシアの騎馬軍団がびっしりと並んでいる。
3段目と4段目の騎馬軍団
シャープール1世に降伏したローマ皇帝3人が騎乗の皇帝に赦しを請うている。ゴルディアヌス3世、フィリップス・アラブス、ウァレリアヌスの3帝。ひざまずいているのは、ナクシェ・ロスタムの戦勝図と同じウァレリアヌス帝かな。その上に天使がディアデムのようなものを持って空中に浮かんでいる。
シャープール1世の馬に踏み付けられているのは誰だろう。
右側は1段目と2段目がローマ軍団。
すでに馬は奪われ、捕虜として連行されているのだろう。それぞれ貢ぎ物を担いでいる。
3段目の皇帝たちの背後。
トーガを着た将軍たちが並んでいる。
4段目もローマ軍
二頭立ての戦車には人は乗らず、奥に丸い石のようなものをかかげた人物がいる。
5段目もローマの兵士たちだが、浮彫の下の方が横にえぐられて、頭部が失われた像も多い。

奥へ歩いていると、崖のえぐられた部分が続いている。
『世界美術大全集東洋編16』は、下方にあった灌漑用水路によって浮彫りの下部が浸食されたという。
日本の塔のへつりのような河食地形かと思っていたら、人工的なものだった。

バハラーム2世(第5代、在位276-293年)の騎馬謁見図
ビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、バフラーム二世がアラブ族の使節を迎えている場を描いているという。
バフラーム2世はディアデムのリボンと短いマントを風に靡かせ、行縢(むかばき)を着けて、右脚後ろに矢筒を下げている。左前肢だけを上げ、頭部を下げた馬も尾は三つ編みにされている。鎖で繋がれた房飾り(諸王の王の標識)はアルダシール1世の王権神授図のドングリ形浮彫とは形が違う。
アケメネス朝時代、ペルセポリスの浮彫に表されていたアラブ人の使節団はヨルダンとパレスチナから来ていたが、サーサーン朝ではどこから来た人たちかはわからない。
馬の手前の2人の人物は襞の多く長い衣装で、衣端のジグザグの重なりが、アケメネス朝期とは異なり、曲線的な描写となっている。
馬2頭と3名の奥にはヒトコブラクダ2頭と3名が登場している。

最後の2つの浮彫が見えてきた。
浅い水の流れと柳や葦、こんな写真だけを見ていると日本にいるようだが、現地は暑かった。

バハラーム1世(在位273-276年)騎馬王権神授図 
『世界美術大全集東洋編16』は、この浮彫りは、国王の頭部の王冠がナルセー王(在位293-303)によって改変され、向かって右の帝王の馬の足下にササン朝の皇太子(バフラム2世の息子のバフラム3世)の横臥した死骸が付け加えられている。このような異常な点が存在するが、浮彫りそのものは、ササン朝摩崖浮彫りの最高傑作と評価されている。もっとも鮮明に示すのが、立体感に富んだ人物像と馬の写実的描写であり、とくに馬の筋肉表現が秀逸である。このような様式の特色は、この作品にシャープール1世が捕虜としたローマの彫刻家が関与していることを示唆していようという。
アケメネス朝期では、ペルシアの属州となったイオニアから来たギリシア系の人々が建築や彫刻に従事したが、サーサーン朝時代では、戦いに負けたローマ人捕虜の中に彫刻を得意とする人たちがいたのだろう。
同書は、向かって右側の帝王がバフラム1世であることは、太陽神ミスラの旭光冠をかぶっていることから判明するという。
旭光冠は光を上部に放つような形で、大きな球体(宇宙の象徴、同書より。ガイドのレザーさんはまとめた髪の誇張と言っていた)を載せている。
同書は、アフラ・マズダー神(ホルムズド)は城壁冠を被っている。その右手でディアデム(環)を握り、
それをバフラム1世に授けようとしているのであるが、環に結ばれたリボン(鉢巻き)は風にたなびき、バフラム1世はその端をつかんでいるに過ぎないという。
ディアデムのリボンはわかりにくいが、『世界の大遺跡4』の図版では、神の手の背後から出たリボンは、ナクシェ・ロスタムの王権神授図に見られる横縞ではなく縦縞で、横に翻った後、バフラーム1世の掌の前を通過し、横縞となって斜め上に伸びて天井にまで達している。

シャープール2世(第9代、在位309-379)の戦勝図は高い位置にあるため用水路による浸食被害は受けてないものの、手前の岩が邪魔。
ビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、シャープール二世によるクシャーン朝の制圧と併合を記念して造刻されたといわれている。上下二段からなり,王は中央上段で玉座に座っているという。
シャープール2世とその周辺
シャープール2世はペルシアの浮彫では珍しく、正面を向いて坐っている。その左には、右手を王に向けて恭順を示す人たち。
王の斜め左下には王の馬を牽いている人物と馬の背後に4名。後ろには長剣を降ろした兵士。
王の右に並んでいるのクシャーン朝の人々?
その下には王に献げものをする人の後ろに子どもが奉納品を持って立っている。

 シーラーズ ハムゼ廟とバザール  →ビーシャープール1 アナーヒーター神殿


関連項目
敵の死体を踏みつける戦勝図の起源
銀製皿に動物を狩る王の図
サーサーン朝の王たちの冠
サーサーン朝の王たちの浮彫

※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 長澤和俊監修 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「アレクサンドロス大王東征路の謎を解く」 森谷公俊 2017年11月30日発行 河出書房新社


2017年7月27日木曜日

シーラーズ ハムゼ廟とバザール


遺跡見学からシーラーズの市街地に戻って来て、ホシュク川のたもとにある聖ハムゼ廟を見学した。

添乗員金子氏の旅日記は、第8代イマーム・レザーの甥、聖ハムザ(806-835年)の霊廟。若くしてイマームを助けたが、スンニ派アッバース朝第7代カリフ・マアムーンにより、シラーズで殺害されたという。
タイル装飾の感じからも建物は古いものではない。
中庭から眺めるハムザ廟はシャーチェラーク廟に似たドームなので、おそらくここも19世紀に再建されたのだろう。シャー・チェラークは第8代イマーム・レザーの弟なので、彼にとってハムザは甥に当たる。
中庭の床には墓石と思われるものがあちこちに敷かれていた。
靴を脱いで中に入ると一面が鏡細工で荘厳されていた。鏡に映る緑色は、シーア派の色。
ドームは、鏡細工でムカルナスさえもどうなっているのか分からないくらい。アーチ・ネットの線はかろうじて判別できる。
ドームの下にハムゼの棺が置かれているが、柵のようなもので囲われている。
レザーさんは、ハムゼさんは当時のこの町の権力者と戦争して傷つきました。重傷を負って、近くの山の中の洞窟で生活していましたが、段々悪化して、その傷がもとで亡くなったんです。そして遺体はここに運ばれましたという。
棺の囲い。聖人廟は大抵このような外枠が付いている。ところどころガラスに丸い穴があいていて、お参りに来た人たちがお布施を入れている。
24金でできていますという。
一つの翼は尖頭ヴォールトの向こうにコバルトブルーのアーチ・ネット、その奥のムカルナスは他よりも大きな鏡片で構成されている。
鏡張りはイスファハーンのチェヘル・ソトゥーン宮殿で見たが、玄関柱廊(ターラール)の、天井と入口上のイーワーンだけだった。その技術が時代を経ても聖人廟に引き継がれてきたのだろうか、別の聖人廟でも鏡張りになっていた。
反対側の翼のムカルナス。
その下部。組子格子の向こうの中庭が透けて見える。
別の部屋では熱心にお祈りする人も(失礼)。ここも腰壁は大理石、上は鏡張りだが、明るい照明のせいか、あまり鏡の反射が気にならない。
扉の浮彫もみごと。
部屋の壁に墓石が埋め込んである。

その後ホテルに戻り、歩いてバザールへ。それは朝散歩したマスジェデ・ヴァキールのワクフの財源となっているバザール・ヴァキールだった。
朝は締まっていた商店街だが、各店舗は開いていた。
マスジェデ・ヴァキール(ザンド朝創建、1750-94年。カジャール朝時代修復)の左からバザールへ。バザールはザンド朝時代のままだろうか。
最初に服地や衣装の店が並ぶ。夕刻にはこの人混み。
続いて食料品街。バザール同じ業種の店が並ぶのは、互いに値下げしないためだというようなことを金子氏から聞いた。だから、バザールは高いのだとか。
ここはスパイス屋。
マーシュマロウの花。お茶にして飲むのかな?調べて見るとマーシュマロウはウスベニタチアオイのことだった。
この根のデンプンがマシュマロになることは知っていたが。

四つ角にお菓子屋さんが集まっていた。美味しそうだが土産物をここで買い足すには嵩張りそう。
レザーさんのお勧めはこのお菓子、マージュン。シーラーズ独特のものだという。暑い長旅でも大丈夫と太鼓判。
ココナッツやピスタチオ、アーモンドの他ゴマも入っていた。
巨大な丸いケーキ状のものをこんな風に切り、ラップを巻いただけなのに、ホンマに大丈夫?
でも、せっかくなので試してみたいと、そこそこのを買った。
酷暑の中をバスで長々と移動して心配だったが、多少の変形はあるものの、全くなんともなかった。
縦に切るのは難しいので、こんな風に切りわけ、ナツメヤシその他のお土産と共に少しずついただきました。
甘さ控えめで、瞬く間になくなってしまったけど。
左がココナッツ、その右がゴマ、右端が刻んだナッツが掛かったゴマ。

レザーさんについてどんどん進んでいくと、
四つ角の天井にはこんなドームが架かっていた。ちょっと古そう。
その内に外の光が射し込んできて、
サライエ・モシールという札がある。下部の黄色い箱はポスト。シーラーズでは別のポストに絵はがきを投函し、帰国までにちゃんと届きました。
ピンクが入っているけれど、花の描き方からみてザンド朝期のものかな?
中に入ると平たいドーム。
その先も同じドーミカル・ヴォールトが続く商店街。
そして中庭へ。サラーイェ・モシールのサラーイェはキャラバンサライのサライだった。
水とナツメヤシの実で渇きと空腹を満たして到着した隊商たちの宿泊所も、今では工芸品を売る店舗となっている。
観光客よりも、水辺に涼を求めてやってきた地元の人が多い。
中庭からはドームは見えない。
あの角から中庭に入って来た。
中庭にいたこのおじさん(何故かピンボケ)、カメラを向ける人にポーズをとっている。
遊牧民の伝統的な着衣をまとい、服がずれないように革のベルトを締める。別のベルトには銃弾?が。鉄砲は何時の時代のものだろう。


ナクシェ・ラジャブ サーサーン朝の浮彫← 
   →タンゲ・チョウガーン(Tang-e Chowgan) サーサーン朝の浮彫

関連項目
シーラーズで朝散歩
チェヘル・ソトゥーン宮殿(Chehel Sotun)

※参考文献
添乗員金子貴一氏の旅日記