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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年4月1日金曜日

6 エルコラーノ門から墓地通へ

テルメ通(Via delle Terme、下図ではノラ通)から①エルコラーノ門(Porta di Ercorano)を通ってポンペイ遺跡を出た。
当時、他の邸宅にはまだなかったモザイク円柱があったくらいなので、「モザイク円柱のある邸宅(villa delle colonne a mosaico)」は立派な邸宅だったに違いない。
『ポンペイ今日と2000年前の姿』は、北にいくとモザイクの円柱がある邸宅(まだ完全に発掘されていません)があり、美しい庭と噴水そして紀元前3世紀頃の墓の跡がありますという。
Cモザイク円柱のある邸宅は通りに面していたようだ。邸宅の隣にG墓廟がある。
これが①エルコラーノ門。門の両側にトンネル状の通路がある。
同書は、アウグストゥス皇帝の時代、外壁や門が防御的な役割を失った時に全面的に改装されました。改築後は凱旋門のような門になり、真中の大きなアーチのある出入口は荷物用、両側の小さな出入口は歩行者用として利用されるようになりましたという。
歩行者用トンネルを歩いてみたかった。
レンガと石を交互に重ねた門は奥行きがある。通りに面してアーチが2つ続く。壁の表面には白く塗られていたようで、ストゥッコ装飾でもあったのかも。
この道は墓地通(Via delle Tombe)という名のとおり、墓廟が並んでいた。
やがて左側には円柱が3本見えてきた。⑤イスタチディ家の円柱で囲われた霊殿で邸宅ではない。手前のベンチのようなものは、④みこマミアの座席のある墓。
右側には⑪礼拝堂の形をした墓があった。内部には旅人の椅子が置かれ、壁や天井にはスタッコが施されているという。
その左側に柵のある玄関があるようだ。ひょっとしてそれがモザイク円柱の家で、この礼拝堂の形の墓は、モザイク円柱の家の墓ではないだろうか。
通りの両側には墓ばかりが並んでいる訳ではなかった。墓廟に続いて右側に列柱を配した商店街が、
左側にも同じような商店街があったらしく、柱が部分的に残っている。
種々な商店が並ぶ道路の柱廊で、商店の2階はふつう食堂の付いた小さな住まいになっていましたという。
地図には道が二つに分かれるように描いてあるが、右の道は整備されておらず、左側へ。
左側にまた墓廟群。今度は祭壇形の墓が並んでいる。個人ではなく一族代々の墓廟だった。
右側には低い壇だけ残った墓もあった。その向こうの⑳執政官の夫と参事会員の息子のために、みこアッレイア・デチミッラが建てた石灰華の高い墓があって、それを背にして写真を撮っている人がいた。
私も同じ所まで行って振り返ってみた。何を撮っていたのだろう。
レンガ積みではなく古そうな石積みの壁面に大理石の扉がある墓があった。
『完全復元2000年前のポンペイ』は、その奧の埋葬室に骨壺がおさめられていたという。
ここで遺跡としてのポンペイから外に出た。
※参考文献
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)